「失敗したときの責任は俺が負うから心配するな」
なんて頼もしい上司なのだろうか。そこまで言ってくれているのだ。部下としてやらなくてどうする。
「わかりました」
野々花が強く頷く。ついでに鼻息も少々荒くなった。
リアクションが少しオーバー過ぎたか。加賀美はまたまたクスッと鼻を鳴らして目を細めた。
「じゃ、その前にまずは腹ごしらえだな」
「はいっ」
目の前にずらっと並んだやきとりの串。野々花はその中の一本を手に取り、「いただきます」とかぶりつく。
「いい食べっぷりだな」
ついいつもの調子で大口を開いたと気づいたが、時すでに遅し。今さら上品ぶっておちょぼ口にもできず、潔くやきとりを串から引き抜いた。
(もしかして、エリートの人たちはやきとりにかぶりついたりしないの? 串からひとつひとつ引き抜いて箸で食べるとか?)
だとしたら、野々花はやはりそんな人たちとの付き合いはやはりできないのではないか。
この際、加賀美を気にせず食べてしまおう。どう思われても関係ない。だって、野々花の恋は木端微塵に砕け散っているのだから。
ここは申し訳ないけれど、仕事のストレスを発散させてもらおう。
野々花は加賀美の視線をものともせず、次から次へとやきとりを頬張る。そうしてマスターもびっくりするくらいの串の残骸ができあがり、ビールジョッキも二杯空にした。
普段ならジョッキ一杯で十分だが、おいしいやきとりでお酒が進んだのかもしれない。ほろ酔い気分で気持ちがいい。
そろそろ帰ろうとなり、呼んでもらったタクシーに部長と乗り込んだ。
おおまかな住所を告げてから、加賀美は隣でブリーケースからタブレットを取り出した。なにか調べものか仕事のようだ。
野々花は邪魔をしないようにおとなしくシートに身体を預けた。
ちらちらと加賀美の横顔を盗み見る。
(あぁ……本当にかっこいい。素敵。もう最高)
ほんの数十センチ先で加賀美の顔を数十分にわたって見られるなんて、まさに夢のよう。
そのくせ車の振動の心地よさと、ほどよいアルコールのせいか、つい眠くなる。
部長の隣で眠りこけるわけにはいかないと懸命に目を開くが、次第に瞼は重くなり、そうしているのが困難になってきた。
上司は隣で仕事をしているのに寝るのは失礼だと頭ではわかっていても、急激に襲い掛かる睡魔に抵抗できず、潮が引いていくように静かにさらわれていった。
目が覚めそうで覚めない。意識の狭間を行き来しながら、寄りかかった窓の揺れに身を委ねていると、ふと頬にやわらかいものが触れた気がした。
頭をぼんやりさせたまま薄っすらと目を開けると、加賀美の顔がゆっくりと離れていく。
(……え? もしかしてキスされた?)
そう考えて、即座に否定する。
(そんなわけないよね。妄想も甚だしい。でも、さっきの感触はなんだろう……)
必死に考えようとするものの睡魔には敵わず、再び薄らいでいく意識。野々花はアパートに着くまで眠り続けたのだった。
朝のラッシュは、何年経験してもつらさに変わり映えはない。発車のメロディが流れてくるのと同時に走りだし、はちきれそうなほどの人混みの中にダイブする。
夏場よりは幾分かマシになったが、九月半ばでもむさくるしさは同じ。いや、一年を通じて不快なのは変わらないが。
これが五日間続くのかと思うと、月曜日の朝は特に憂鬱になる。
どうにかこうにかドアの手すりのところに居場所を確保し、窓と向かい合う体勢で立った。これが地下鉄だったら、閉塞感でもっと息苦しいのかもしれない。
ドアが開くたびに一緒に吐き出されてしまうが、何度も同じ位置に戻りやりすごす。今朝はいつもより気分がさらに優れない気がする。
頭痛がするのは、この混雑のせいだろう。
(あと三駅だ……)
げんなりしながらため息を小さくついたときだった。背後にあった圧迫感が不意に軽くなる。横目で周りを見てみても、人が減った様子はない。
(あれ? どうして?)
野々花が不思議に思ったときだった。思いもしない声が頭上から降ってくる。
「おはよう」
――この声は。
不自由ながらも首をなんとか動かして後ろを確認する。
(やっぱり……!)
加賀美が野々花の背後に立っていたのだ。
「お、おはようございます」
そう返してから、角度が苦しいため真正面に顔を戻す。
「加賀美部長もこの電車なんですか?」
「知らなかったか」
「はい。お見かけしたことがなかったので」
電車通勤は知っていたが、同じ路線だったとは。
「俺は何度か星を見たよ。まぁこの混雑だから、声はかけられなかったけど」
なんと、加賀美に目撃されていたとは。
変な顔をしていなかったか、妙な行動はしていなかったか、野々花はつい心配になる。と、その前に、まずはお礼だ。
「先日はありがとうございました」
加賀美にやきとり屋でごちそうになったのは、先週の金曜日。プライベートナンバーは教えてもらっていたが、さすがに電話をかけてお礼を言う勇気はなかった。
加賀美にキスされる夢を見たせいか、必要以上にドキドキする。
「楽しかったよ」
「あ、はい……」
そう言われるとわけもなく恥ずかしい。しかも優しい声は反則ではないか。おかげで野々花の心臓がトクンと跳ねた。
電車が揺れるたびに加賀美の身体が背中に触れるからたまらない。逞しい胸板だな、なんて考える自分はやはり変態チックだと落ち込む。
ただ、加賀美が腕を突っ張って野々花にスペースを作ってくれているおかげで、さっきより体勢がずっと楽になった。両腕が野々花の両脇から伸ばされ、まるで守られているような気になる。
(……だから、私ってば! 守られてるわけじゃないって。揺れに任せて私にべったり身体を押しつけたりして、あとでセクハラ!と言われるのを避けるために決まってるじゃない。……ま、それは言い過ぎとしても、べつに私だからどうこうじゃなく、部下をラッシュから守ろうという部長の多大なる心が成せる技なのよ)
部下が悩んでいるのを放っておけないと言っていた加賀美を思い出した。
万人に対する優しさのレベルに違いない。
やけに騒がしい鼓動を宥めすかせ、野々花は降車駅まで揺られた。
プシューと音を立ててドアが開く。いつもなら後ろから強く押し出されて転びそうになることもあるのに、今朝はそれもない。
それもこれも加賀美がかばってくれたおかげだろう。
「あの、ありがとうございました」
人の波に流されながら、隣を歩く加賀美にお礼を言う。
「いや。あの混雑は女性にはキツイだろ」
涼やかな笑顔が眩しい。
野々花だからガードしたつもりはないのだろう。女性に対してああいった気遣いができるのだから、モテないわけはない。
でも、失恋相手にこれ以上関わらない方が自分のため。
野々花は改札を抜けると、「では、お先に行きますね」と軽く会釈し、小走りで加賀美との距離をとった。
「あ、おいっ」
加賀美に呼び止められたが、足を止めずにそのまま次なる人の波に飛び込んだ。
◇◇◇◇◇
「おはよう……ござい、ます」
小走りでここまでやってきたため、息が切れ切れ。野々花は肩を軽く上下させながら、自分の席についた。
(私は朝からなにをやっているの)
今になってみれば、加賀美のもとから走り去る必要もなかったのにと思わなくもない。朝からランニングもどきをしたせいか、頭痛がさっきよりもひどくなった気がする。
こめかみを押さえながらパソコンの電源ボタンを押したタイミングで、瑠璃が出勤してきた。
「おはようございまぁす」
金曜日になにごともなかったかのような無反省な声のトーンに、ついモヤッとする。
「間宮さん、もう具合はいいの?」
嫌味のつもりで聞いたが、本人にはそれは伝わらない。
「はい。ご心配をおかけしましたぁ」
ピースサインを作った手を額にもっていき、舌をペロッと出す。
そんな様子を見て、野々花の頭にさらに痛みが走った。
(ほかになにか言葉はないのかな。私、代わりに木曜日に残業してマーケティングレポートを作ったんだけど)
鼻歌交じりにパソコンが立ち上がるのを待つ瑠璃をじっと見ていると、彼女が野々花を見てクスッと笑った。
「だーかーら、星さん、皺が深くなりますってば。すごい顔になってますよー?」
語尾を必要以上に伸ばし、瑠璃は首を傾けて微笑んだ。
「な、な、なにを言って……」
声が震えているのは自分でもわかる。デスクに置いた手は拳を握った。
「はい? どうかしましたか?」
瑠璃の無邪気な声に、もう我慢の限界だと思ったそのとき。
「間宮さん、その前に言うことがあるだろう?」