それが涙まで流しそうなほどに笑っていた。
「鬱憤がたまっているなら聞くって言われちゃった」
「それで聞いてもらったの?」
「そんなのできないよ。後輩の指導もできない無能な社員だって思われたくない」
「憧れの加賀美部長でしょう? せっかくお近づきになれるチャンスだったのにー」
スツールから落ちそうになるほど、望に脇から小突かれた。グラリと身体が揺れる。
「お近づきって。相手は加賀美部長だよ? どうこうなるはずがないよ」
ハイスペックイケメンが、社内の一社員を恋愛対象の女性として見るわけがない。それこそ近づくどころか、遠ざかるだけだ。
「そんなのわからないのが男と女でしょ。私だったら、〝それじゃ飲みながらにしませんか?〟なんて誘っちゃうけどなー」
「望ならそうするだろうね」
「あらなぁに? ちょっと棘のある言い方じゃない?」
「違うってば。望みたいに美人だったら、できるでしょって話」
望に鋭い眼差しで見られ、急いで訂正する。たしかに言い方は悪かったと、野々花も反省だ。
瑠璃の一件もあり、ついあたるような真似をしてしまった。
でもそれが本音でもある。望のような容姿だったら、野々花ももっと自信をもてただろう。どこにでもいるような、まさしく普通の自分では加賀美に釣り合わない。
早いところ玉砕して、かえってよかったのかもしれない。そう前向きに考えようと決めた。
「ところで会うって言っていた彼はどうしたの?」
これ以上、瑠璃に関わる話をしていたら、余計に気分が滅入る。野々花は話を切り替えた。
「それがさぁ、聞いてよ。実家の親が病院に運ばれたってメッセージが、待ち合わせの直前になってきたのよ」
「それは大変。大丈夫なの?」
その言い方だと救急車だろう。ただごとではない。
「やだ、そんなの嘘に決まってるじゃない」
本気で心配した野々花の肩を望がぺちっと叩く。
「そうなの? どうしてわかるの?」
「だって、見かけちゃったんだもん。別の女と歩いてるのを」
望は盛大にため息をついた。
親をダシにしたひどい嘘をついておきながら、よく堂々と街を歩けたものだ。ある意味、度胸がある。
どういうわけか、望はたいていそんな目に遭う。好きになる相手が、ことごとく〝ダメンズ〟なのだ。見た目はいいのに、中身の伴っていない男。そういうのにどうも惹かれてしまうらしい。
せっかくモテるのにもったいないというのが、常日頃から野々花はそう感じている。
「もうちょっと真面目な人を探そうよ」
「それはわかるんだけどねぇ」
なかなかそういかないのが恋心というもの。きっと、頭でわかっていても自制が効かなくなるのだろう。
野々花だって同じだ。絶対に振り向いてもらえないであろう加賀美に、長らく恋をしてきた。頭で無理だとわかっていても、その姿を目で追わずにいられない。
(……それも今日で終わりだけどね)
ふぅと小さく息をつく。
いっそ結婚相談所に登録して、早々に結婚を考えようか。
望の愚痴を聞きながら、野々花はぼんやりと考えた。
翌日、出勤した野々花は愕然とさせられた。
デスクに貼られた、一枚の付箋。それは小さいくせに強大な破壊力をもっていた。
【間宮さん、体調不良で休むそうです】と書かれていたのだ。
(嘘でしょ……。昨日、仕事を放り出して帰るなんて無責任な所業をした挙句、翌日休むなんて……!)
昨夜、用事があってやむなく帰ったのは、百歩譲るとしよう。それがたとえ友達との約束だとしても、この際いいだろう。
でも、翌日はそのフォローがあってもいいのではないか。尻ぬぐいをした野々花に謝罪なり感謝なり、なにかしらのアクションがあるのが普通ではないのか。
例えば、〝これ、ほんの気持ちです。昨日はすみませんでした〟との言葉に、小さなチョコレートでも付けてもらえば、野々花だって〝いいのよ。次はがんばろうね〟と寛大な心で許そうと思える。
それがこれ。この仕打ち。三ヶ月間フォローし続けた先輩に後ろ足で砂どころか、水をたっぷり含んだ泥をかける行為だ。
(もうダメ。こんな気持ちのままじゃ仕事にならないよ)
昨日は昨日。今日はまた清々しいスタートを切るはずだった仕事に、真摯な気持ちで向き合えない。
野々花は、向かいのデスクの松村に「ボールペンが切れたから、備品庫に行ってくるね」とひと声かけ、足早にマーケティング部を出た。
松村が一瞬ギョッとしたような顔をしたところをみると、野々花の顔がよほどひどい形相だったのだろう。
でも、それにかまっている余裕はない。笑顔を浮かべる気力もない。
昨夜加賀美に目撃されたばかりだが、それを気にしているどころではなかった。夜まで待てない。緊急事態だ。
(なんなのなんなのなんなのー!)
エレベーターにひとり乗り込み、タッチパネルの三十四階を連打。そうしたところでエレベーターのスピードが上がるわけではないが、やらずにはいられない。
さすが新しいビルだけあって、動きが上品なのが今日の野々花には堪える。
ようやく三十四階に到着し、カツカツカツとヒールの音を響かせて備品庫へ向かった。猪突猛進とはこういう状態をいうのだろう。
視界の隅で人影が動いた気がしたけれど、今はそれを気にしているゆとりはない。野々花には備品庫のドアしか目に入っていなかった。
勢いよくドアを開け、後ろ手で閉める。いつもなら窓際の隅の方へ行くが、そこまですら我慢できない。
「いい加減にしてーーーー! 仕事をなんだと思ってるのー! 私にこれ以上迷惑をかけないでー!」
声の限りに叫んだ。それこそ内臓が出てくるのでは?と心配するくらい、おなかの底からすべてを絞り出す。
朝からここへ来て叫ぶのは初めてだった。そこまで追い詰められたと言ってもいいのかもしれない。
肩を上下させて、荒い呼吸をやり過ごしていると、背後でドアが開かれた。
ハッとして振り返った野々花は、目を見開いたまま動けなくなる。
「今朝もまた威勢がいいな」
加賀美だったのだ。
(まさか……まさか、また聞かれた?)
挨拶も返せず驚愕の表情で見つめていると、加賀美は涼しげな微笑みを浮かべながらツカツカと野々花に歩み寄ってきた。
「星がわき目も振らずに一目散にここに入るのを見かけてね」
昨夜同様に凄まじい光景が繰り広げられるのではと、足を踏み込んだといったところか。
一度ならず二度までも、加賀美に妙なところを見られてしまった。同じ場所を選んだ野々花が迂闊なのもあるが、タイミングの悪さも恨めしい。
「よほど腹に据えかねてるようだね」
「それはその……申し訳ありません!」
腰を折り曲げ、とにかく謝った。
昨夜は退勤後だから問題がないとして、今は立派な仕事中。タイムカードを打刻したあとなのだから、ここで油を売るのはいかがなものか。
「どうして謝る?」
「仕事中なので……。それに、二日連続で部長に変な声を聞かせてしまいましたから……」
あの雄叫びを二度も聞かれたのかと思うと、恥ずかしさを通り越していたたまれない気持ちになる。
加賀美は「変な声ね」と言いながらクククと肩を揺らした。
笑いごとじゃないのにと思いながら、でもそうして笑ってもらった方がいいのかもしれないとも思う。あまりにも情けない自分の身の上は、この際笑い飛ばした方が諦めもつく。
(私の恋よ、グッバイ……だ)
なんて情けない終わり方なのだろう。告白すら許されない。悲しすぎて涙も出ない。
「本当にすみません。仕事に戻ります。また一生懸命がんばりますので」
この失態は仕事で返そう。それしかない。
そう決意し、足を一歩踏み出そうとしたとき。
「今夜、食事でも行こうか」
「えっ? はい?」
今、加賀美はとんでもないことを言わなかったか。
野々花の目が点になる。
「じっくり話を聞いた方がよさそうだからね」
加賀美はふわりと笑う。
その笑顔にくらっと目眩を感じるばかりか、胸を打ち抜かれた気がした。それも超高速の弾丸だ。
「あとで星宛に社内メールを送るよ」
「えっ、なんのメールですか?」
焦って聞き返す。
ところが加賀美は野々花の質問に答える気はないらしく、思わせぶりな笑みを浮かべ、「じゃ」と爽やかともいえる去り方で備品庫を出ていってしまった。
「……え? どういうことなの?」
野々花は面食らったまま、その場で立ちすくむ。
かすかに残った清々しいシトラスグリーン系の匂いは、加賀美のつける香水か。あまりにもいい香りで、野々花は無意識に胸いっぱいに吸い込んだ。
「……って私、変態?」
奇声をあげるうえイケメンの残り香をクンクン嗅ぐ所業に、我ながら呆れる。
が、今の問題はそこではない。あの加賀美が意味深な笑みを残して去っていったのだ。
(私、今、食事に誘われなかった? 嘘でしょ……)
非常事態に陥り、じりじりと鼓動が速くなりだす。
「ど、どうしよう! どうしたらいいのー!?」
そう叫ばずにはいられなかった。