想い想われ、恋が成就する。
世界中で、いったいどれくらいの人たちが自分の想いを叶えるのだろうか。

星野々花(ほし ののか)は、ふとそんなことを考えながら、ガラス張りのミーティングルームを自分のデスクから眺めた。

大きなテーブルを囲むようにして座る七人の社員。その中でひときわ輝いて見えるのは、プロジェクタースクリーンの真向いに座る加賀美駿介(かがみ しゅんすけ)だ。

テーブルに両肘を突いて手を組み、その視線の先には社内プレゼンまっただ中の部下に注がれていた。真剣な眼差しが、なんともいえずグッとくる。

スッと通った鼻筋に少し厚みのある唇。魅惑的という言葉がなによりも的確に加賀美の顔立ちを表現している。
知的で意思の強そうな切れ長の目だが、実は笑うとかわいいという無敵さ。そのギャップにノックアウトされる女子社員は後を絶たない。

なにを隠そう、野々花もそのうちのひとりだ。

すらっとした長身と相まって、人の目を惹きつけてやまない。それが加賀美駿介である。

社内ではジャケットを脱ぎ、ベスト姿というのが彼の定番スタイル。細身の割に逞しい胸板と、引き締まったウエストラインがセクシーだと評判だ。


(今日も素敵だな……)

そう思わずにはいられなかった。


野々花は大学を卒業後、イベントブースや商業空間、街並みなど、あらゆる空間のデザインを手掛ける会社『クレアスト』に入社して丸四年が経った。野々花が所属するマーケティング部には、入社当時からお世話になっている。

もともとクライアントから依頼された案件のデザインを作成するにあたり、出店候補地などのマーケットリサーチはデザイナーが行っていた。
ところが、これが思いのほか的を射ていたため、独立して立ち上げた部署がマーケティング部なのだ。

現在は自社で手掛けるデザインに関わらず、リサーチの依頼が入ってくる。
他社でマーケティング調査の経験を積み、エリートと呼び声の高い部長の加賀美を筆頭に、スタッフは七名。少ない人員で日々忙しくしている。

つまり野々花が密かに想いを寄せる加賀美は、彼女の上司である。

彼のリサーチ力は他社の追随を許さず、以前いた会社で取引のあったクライアントは今でも加賀美を懇意にしており、名指しでの依頼もある。
三十歳にして人望と容姿を兼ね備えており、社内でも男女問わず人気のある男だ。

いっぽう野々花は特別美人でも目立つでもなく、クレアストのその他大勢。モブのような存在と言ったらいいのか。


全人類で両想いになる確率が何パーセントなのかは知らないが、野々花が加賀美に振り向いてもらえる確率はかなり低いと言えるだろう。それこそ五パーセントにも満たないのではないか。

(ううん、違う違う。それは自分を買いかぶり過ぎよ。限りなくゼロに近いから)

デスクでひとり首を横に振る。

野々花の前に加賀美以上に素敵な人が現れる可能性も同時に低いだろうから、いっそのこと彼を一生想い続けるのもいいかもしれない。

そんな結論に達しながらパソコンに向かっていると、隣の席から能天気な声をかけられた。


「あれれ? これって、どうやるんだっけ? ねぇ、星さん」


信じられない思いで手を止める。

(嘘……。またそんな質問をするの?)

声の主は、野々花のふたつ後輩である間宮瑠璃(まみや るり)だ。


「星さんってば、聞いてますかぁ? エリア設定ってどうやるんでしたっけ?」


再び呑気な声を左耳に浴びせられる。


「ええっと……どうやるって、先週も先々週も教えたよね?」


もっと言えば、そのまた一週間前にも。いや、彼女が経理部からマーケティング部に異動してきて、野々花が教育係に任命されてからずっとだ。

(何回教えた? もう十本の指でも足りないくらいだと思うんだけど。きっと両足の指を使っても数えきれない)

ところが瑠璃には、その記憶がないとみえる。


「ええ? そうでしたかぁ?」


首をカクンと傾けながら、胸もとに垂れた長い茶髪を指先でくるんくるんと弄んでいた。


「何度か言わなかったかな? 教わったらメモをとろうか」


声を荒げそうになるのを必死に押さえ、優しく、努めて優しく諭す。それでも、気持ちを押さえようと酸素をたくさん吸ったせいで、肩が大きく上下した。

メモをとるのは、仕事における基本中の基本。それに操作マニュアルだって野々花が作って渡してあるのだから、それを確認すれば済む話だ。


「だって、面倒くさいんですもん」
「め、面倒くさいって……」


開いた口がふさがらないとは、まさにこれだろう。
情けなく口をパクパクし、かなり間抜けな顔になった。


「聞いた方が早いじゃないですか。いつだったか星さん、言ってましたよね? 仕事は効率良く進めるのが肝心だって」


たしかにそう言った記憶はある。仕事をスピーディーに進めるのは大事だと。

(でもでも! ちがうの! 間宮さんの場合はそれ以前の問題なのー)

思わず叫びたくなった。

昨年の春に入社した瑠璃は、経理部から異動して三ヶ月が経過しても、まったく進歩がない。

本人によると、数字を扱う地味な経理より、クリエイティブな職務に適性があるのだとか。でも実際のところ、経理部で使えないからマーケティング部に異動させられたとの噂が飛び交っている。経理部とマーケティング部との部長の力関係で、押し切られた感も否めない。

経理の部長は、会社を立ち上げた社長と変わらぬ勤続年数なのだ。仕事ができるとはいえ、入社して五年の加賀美もさすがに人事については意見できないだろう。


とにもかくにも、瑠璃は社内でも有名な〝お荷物〟。メモはとらないし、話は耳を右から左。仕事を覚えようという気持ちが、これっぽっちもない。

それなのに先輩社員の数名から、『教育係の星さんの教え方がまずいんじゃないの?』などとからかい半分に言われ、野々花は散々な毎日を送っている。


「間宮さん、あのね」


軽く深呼吸をして、キャスター付きの椅子ごと彼女の方を向く。


「自分でメモをとるのととらないのとでは、仕事の覚えが全然違うと思うの」
「そうですかぁ?」


言葉尻を不必要に伸ばす瑠璃。

(髪をくるくるしながら人の話を聞くのをやめられないかな)

毛先をじっと見つめて気のない素振りの瑠璃を見るにつけ、野々花の怒りのインジケーターがじりじりと上がっていく。

(だめだめ、落ち着くのよ……)

膝の上に置いた手をギュッと握りしめ、野々花はそれをなんとかやりすごした。