勝手に師匠とも同志ともたのんでいた一葉に斯くみずからをさらすのは、私にとって至極当然なことだった。しかし当の一葉にしてみれば初対面の自分の前であぶれ者などと臆面もなく云い、まして目をすがめてよく見れば、我父母に等しき年配者なる私をはたしてどう思うだろうか。第一私はまだ彼女の‘拙作’「うもれ木」への感想を述べていない。年甲斐もない興奮の中にいるとはいえ非礼だし、何より本郷から大森へのワープに度肝を抜かしているだろう彼女の心の内をまったく慮っていなかった。

(※PS1)小説の節目節目で以下のように和歌数首を「小説返歌」として挿入します。樋口一葉のそれと私のそれを。そのゆえは一葉のそもそもの文学の出自が歌人だったからであり、私も(一応)そうだからです(短歌研究社の「歌人年鑑」に私こと多谷昇太の名が載っております)。和歌は小説執筆の上で核ともなり、また何よりも日々生き行く上での核というか、友ともなるものです。それゆえの挿入です。さらに云えば古来短歌と並存して長歌というものがあって、その末尾に「返歌」と称して長歌全体を象徴するような和歌を一首置くのです。ですからここではそれに習ったわけです。小説ともどもぜひご堪能ください。

「小説返歌」
いみじき世せちなる世とぞ何かせん世に迎へらる我ならなくに

人見れば厭はしく声聞かば憂し手負いの獣牙剝くごとし

風を聞く森の千葉(せんば)のそよげるを人の世みにくただ風を聞く
                            ―上三首、著者
   

卯の花のうき世の中のうれたさにおのれ若葉のかげにこそすめ

とにかくも超えるを見ましうつそみの世わたる橋や夢の浮き橋

世の人はよも知らじかし世の人の知らぬ道をもたどる身なれば 
                           ―上三首樋口一葉