〝とにかくに踏み試みん丸木橋わたらで袖のくちはてんより〟 一葉

「ご免くださいまし」玄関口で女が案内を乞う。針仕事をしていた邦子が立って戸を開けると、そこにはつぶし島田をだらしなく結った菊の家の女給と思しき女の姿があった。鬢にも髱にもほつれ毛が目立ちとても吉原花魁の文欽高島田姿とは比ぶべくもない。立ち振る舞いに都合のいいように大きく開けた着物の襟の下には、こちらも幅の広い南部茜染の半襟が覗いていた。化学染料と思しき立縞に染められた木綿の着物とそれは好対称をなしている。おそらく南部地方の百姓の娘の出と思われ、娘時代にしつらえた半襟を今の商売に合わせて着たものか、朱色の立涌しぼりが哀れに鮮やかだった。年の頃は27、8だろうか、やつれているとは云え男好きのするような色白のいい女である。
「あら、お邦さん、いらっしゃい。(一葉に)姉さん、お邦さんよ」自分の名前を云いながら姉に取り次ぐ。一葉も針仕事の手を休めて「ああ、邦さんね。お上がりなさい」と招じ入れ邦子に茶を入れるよう頼む。母たきは本郷湯島の親戚宅に外出中である。そのたきの不在を確かめるようにして邦はおずおずと板の間に上がり邦子に案内されて奥の六畳間へと通された。「ちょっと待ってね」そう云って縫っていた長胴着を脇に片付けながらも一葉の目が邦をやさしく迎える。玄関口での応対で済まされるだろうと思っていた邦は、必要以上に何度もお辞儀をしては片付けが終わるのを待つ。やがて顔を向けた一葉におもむろに口を開いた。
「先生、この間はご無理をお願いして申しわけありません。それで、あのう…」邦子が淹れたお茶に恐縮しながら邦が云うのに「ほほほ、先生は止してくださいよ、お邦さん。はい、ちゃんと出来てますよ」そう答えて一葉は立ち上がり、自分の書斎としてあてがっていた隣の六畳間から文箱を持ち出して来、中から流暢な筆跡で認められた半紙を2枚取り出しては邦の前に置いた。