「いかがですか、こうしてわたしの嘘のない心情を申し上げ、またあなたの窮乏のことも承りましたので、以後わたしとお付き合いいただけるならば、援助のこと、やぶさかではありませんが」と。「お付き合い?…とは?」顔を赤らめながら聞く一葉に「月15円(今で云えば15万円ほど)。これを毎月御用立てしましょう。そのうえ園遊でも展覧会にでも、あなたのお気の向くものにお連れもいたします。その際のお着物はおしつらえしましょう。肝心のことについては云わずもがなのことです。毎日とは申しません、たまさかで結構です」と、そう義孝は云ったのだった。受けられるはずがあろうか、妾になれと云うのだ。酌婦や吉原の芸伎の真似などができようか。もはやこれまでとばかり申し出を断ったうえで一葉は義孝の屋敷を辞したのだった。帰る背になおも「すぐに返答せよとは申しません。この後もお手紙など差し上げますので鷹揚に考えられて、ご返事ください。これからの時期、花見のご同行だけでも結構ですから」などと追いすがるのに、はい、はいと忙(せわ)しげに何度もうなずいては、袂を乱しながらのことだった。
 虫の音が当時の思い出に火照った一葉の耳によみがえる。リリリリリ、ジジジジジと無心に鳴いている。み山(出家暮らし)の寂寞もかくやあろうか、などと、できるものなら憂き世を離れて、いっそ出家したいものと…いつもの願望に心を浸す。義孝のことはいまより半年前の2月のことだった。あのあとどこをどうさまよったものか、気がつくと幼いころから馴れ親しんだ法真寺の境内に来ていたのだった。ところがここに来て一葉の記憶がプツンと途切れる。いつものことだった。そこでなにがしか不思議な体験をした覚えがあるのだが、それがどいうものだったかどうしても思い出せないのだ。たしか大森…などと探ってもみるが記憶はもどらない。なんにせよ当事気が違うほどに動転していたはずなのに、しばらくして法真寺を出たときには気分がすっきりしていたのだった。いったいなんだったろうか、ええい、わずらわしい、そのうち思い出すこともあろう…などとするうちに一葉の目にも眠気がさしてきた。あのあと確かに義孝からは何度も筆繁く手紙が来たのだった。花見もなにもない、それどころではないと記して、断りの返事を都度返しはしたのだが、はて…いつしか「諾なり」の返事を出しもしただろうか?こちらの方は思い出したくもないことだった。「月15円…」の数字が当事も今も頭の中で踊る…隣で邦子が苦しげに寝言を云い寝返りをうった。さても自分のかわりに辛い夢でも?…「妹よ、許せ」ひとこと云って一葉の意識も失せた…。

―小説返歌―
いづれぞや憂きにえ絶へで入りそむるみ山の中と塵の中とは
                            ―by 樋口一葉