「やあやあ、かほど暗き時分に帝大内を徘徊するとはなにゆえあってのことか。いずれ一葉女史をものにせんと彼の人を襲いし馬場氏(うじ)、平田氏の両名ならんや。その首尾やいかに。聞かさんならばここは通すまじ」と両手を広げて通せんぼをする戸川秋骨。島崎ともども飲酒したと見え顔が夜目にも赤い。「ようよう、禿木。酩酊した背徳の、けしからん神父のお出ましだぜ。一葉女史を襲ったとは人聞き悪い。普段から鼻の下を長くして、女史のことを根掘り葉掘り聞いているのは誰か。なあ、禿木」とこれをからかう。「その通り、その通り。首尾やいかになどと寝起きの悪いことを云ってないで、直接女史を訪問したらどうなんだ。いつでも連れて行って紹介してやるぜ」と応じたあとしかし一葉宅での顛末を語って聞かせてやる。聞きながらこれにいかにも感情移入したようで、戸川秋骨は酔いを押しのけて関心の権化のような観を呈してくる。「ほう、ほう、そうか。酌婦を家に。で、その後どうなった。そのお島とかいう娘の行く末を女史は図ったのか?」と平田にしがみつかんばかりだ。「わはは、これだよ。秋骨は。これでよく教会なんぞに勤められるもんだ。信者の方々に衷心よりご同情申し上げるよ」と藤村が云うのに「黙れ。貴様からそれを云われたくない。ふだんから透谷(北村透谷)の恋愛論にかぶれているのは誰だ。俺はだな、エマーソンの超越主義を彷彿とさせられるような、その…今夜の女史の行状に…痛く、痛く、感じ入ったんだ。俺は、快哉を叫びたい。よ、よし、わかった。横浜慰留地出身の娘なんだな?その子は。だったら俺に伝手がないわけでもない。一葉女史に頼まれるなら便宜をはかるが、禿木、君は後日遅からぬ日にもう一度女史宅を訪問して、意向を聞いて来てくれないか。な?禿木」と入れ込むこと甚だしい。