それを冷ますわけでもないだろうがやや間を置いて「うーむ、ぼくもそれを疑う者ではないよ。しかしぼくが彼女に引かれるのは別のことだ。ぼくより年下でありながらあの落ち着いた、あたかも老女を内に宿すがごとき応対の様はどうだ。あれはいったいどこから来ているのか、ぼくは常にそこに思いが行く。彼女と話しているとやすらぐんだ。君なんぞは彼女より年下でよかった。さもなくば妹でありながら弟のようにあつかわれる兄のごとき、恥ずかしい思いをするぜ」と最後は揶揄的に結ぶ。直情的な平田とはだいぶ赴きの違う、盆栽や将棋、弓術に俳画までこなす、何より寄席が好きな多趣味の人である。バランスの取れた、竹を割ったような性格が人から好かれるところだった。一方の平田禿木は当時の文芸評論家ウォルター・ペイターの「文芸復興(ルネサンス」に痛く感化され、バイロンやシャークスピアを読み進み、それでいながら山家集、徒然草までたしなむ典型的な文学青年であった。功利をおもんばからない審美と、審美の所以となるものへの追求まで心致したと思われる。世捨て人のような西行法師や吉田兼好に引かれるのも道理で、その延長戦上に、生ける審美主義者とでも拝するような一葉を見入出したのだろう。ただ、いまだ文学のみの体験であることがあやぶまれるところだった。
ほとんど野山のような夜の帝大構内、椿山あたりを鳴く虫の風情もものかは、青雲の志士のオーラを放ちながら2人が闊歩して行く。教師会館あたりまで来た時思わぬ人物と出くわした。胡蝶と明治学院で同級生だった戸川秋骨と島崎藤村の2人である。