夕餉をぜひにと勧めるのだが2人は固辞する。一葉宅の窮乏を知っているためか、あるいはその場の雰囲気をまずいと思ったためか知らないが、逆に「夕飯時分に失礼」と詫びて帰って行った。菊坂から言問い通りを伝って帝大内を抜けて行く道すがら、若い文士たちの一葉を語ること、尽きせぬ観がある。「しかし驚いたな、一葉女史には。まさか酌婦をかくまうとは…実に恐れ入る次第だ」胡蝶が云うのに「そうと見るか、君は。ぼくは彼女ならさもやありなんと見た。戯作文学の通俗な人情本なら知らず、一葉さんの書には魂が入っている。有言実行とでもするがごとく、おのれが書いたことを現(うつ)しにやりかねない人だ。だからこそ、ぼくは去年に菊坂の住まいをたずねたのだ。今日は彼女のその片鱗を拝見できて胸のすく思いがした」と平田が応じる。およそ一葉心酔者の走りのような、青雲の学士の風情がある。それへ「君らしいな。しかしこの秋に死すべき蝶のはかないがごとく、彼女とてその著作通りにつらぬけるか、そう舞えるかは微妙だぞ。世を憤慨する、また‘うもれ木’のお蝶に痛く心酔する、君の気持ちはよくわかるがな」などと馬場が云えば「君はぼくが年下と見て世間を知らぬとでも云うか。一葉宅が窮乏しているのはよく心得ている。だからこそ及ばずながら星野さんには、一葉さんの原稿に限って、稿料を払うよう頼み込んだんだ。いま君の云ったうもれ木のお蝶がごとく、たとえ道半ば、志半ばのままに彼女が挫折することがあろうとも、ぼくは決して彼女の本地をうたがうものではない」と平田は引かない。