「おい姉さん、お隣様にもの申したくはねえが、店の女を勝手に引かれて黙っているわけには行かねんだ。確かに給金約束の奉公だが、それならなおさら勝手にゃ行かせられねえ。いいから黙って、返してくんな」堂の入った物云いに一葉が言葉を失っていると「失礼ですが報給の労働契約ですと仕事をするしない、止める止めないは本人の自由意志に任せられるはずです。近年発令された民法ではそう規定されている。雇用の強制はご法度になりますよ」と平田禿木がおずおずと口をはさむ。さても長吉くだりがなおも云うかと見るほどに「ちょっとあんた」とその袖を引く者がいる。見れば長吉の女房と思しき60がらみの女が入って来て問答無用とばかりこれを表に引いたのだった。「な、なにをすんでえ」と咎めるのに「あんた、こちら帝大の学生で…こちらはもの書きの人…堅気のお宅で凄んでどうすんの!?」などと声をひそめて諌める模様。挙句亭主の代りに入って来て「どうも、あいすみません。うちのお島が往来で騒ぎを起こして。お気を使わせてしまったようで。ほほほ」と一葉に頭を下げ平田と胡蝶に「うちはお上の法度通りに商売をしておりますので、どうかひとつ…」などと取り繕う。さらにあれやこれやと云い繕いながら「ほら、お島ちゃん、帰りましょ」と手を差し伸べて引いて行き顛末となった。その後平田と馬場胡蝶が文学界19号を届けに来たとの来訪の旨を云い「いやあ、それにしてもちょうどいいところに出くわした。加勢できてよかったです」とするのに何度も頭をさげて一葉が礼を云う。