ようやく鳴き始めた秋の虫たちの声を耳にしながら母たき、一葉、邦子がもくもくと夕餉に箸をはこんでいる。一葉が萩の舎の師である中島歌子からみやげにいただいた甘鯛の一夜干しもなぜか興をもよおさない。歌子からの借金の不首尾はおろか、いきなり隣家の女給などを連れ込んだ一葉に対して、母の機嫌が悪くなっていたからだ。妹邦子は『姉ならやりかねないこと』達観していたがあえて気まずい雰囲気をつくろうほどの気転は利かせられない。強い母と姉のもとでもっぱら従の性質を育んで来た観がある。最近とみに叱責や繰り言がきつくなって来た母と、なにかしら居直ったような、覚者のようですらある姉のそれぞれの沈黙の前では、ただ黙々と箸を甘鯛にはこぶばかりである。そのかわり池ひとつ隔てた臨家の銘酒屋、菊の家からは酔客の胴間声や酌婦たちのあげる嬌声が、虫の音をやませるかのように時折りつたわって来る。はたしてあの子、お島はどうしているだろうとの思念が、生活費の工面等に悩み多き一葉の頭をよぎる。最前のこと、母の詰問に形ばかりの返事をして、連れ込んだお島を落ち着かせようとしていた時、幾許もなく遣り手婆のお蔦が案内を乞いに戸口に立ったのだった。丁寧ながらすぐに連れ帰るとするお蔦にしかし一葉は首を縦にふらない。今晩だけでもわが家に置くと云うとお蔦は口をとがらせて一端は店に帰った。しかし代りに菊の家の主人長吉が案内も乞わずに「ごめんよ」と云って敷居の中までのり込んで来、「店の子を勝手に引かれちゃ困るねえ。この子には元手がかかってるんだ。ことを荒げたかねえ。さっさとその子、もどしてくんな。おい、お島」と手をさしのべる。「お生憎ですがそうも行きません」と一葉が立ちはだかる。