今の4車線もあるような広い通りとは比べものにならない、しかし人力車や荷車が行き交う白山通りを横切って本郷崖下の新開地へと入って行く。銘酒屋が立ち並ぶ、敢て云えばいかがわしい所へと、である。時刻は夕刻で各銘酒屋の軒先には早くも女たちが立って、勤め帰りの職人たちや若旦那衆の袖を引いていた。どこかで見たような千陰流の達筆な筆跡で「御料理仕出し云々(しかじか)」と書かれている店の隣がわが家である。首尾を訊くだろう母や妹のことを思うと気が重い。ため息を吐いて二三軒前まで来た時にいきなり騒ぎが持ち上がった。「いやだ、触らないで!」と声を上げながら1人の酌婦(?)が表へと飛び出て来た。それを追ってかなり酩酊した風の男がすがりつく。「いいじゃねえかよ、いい玉のくせしてよ、なんで女給だけなんだよ。俺が買ってやろうって云って…」しかし男の手をはらいのけてその顔を女が叩いた。見ればかねてから一葉が気にしていた、異人のような顔つき身体つきをしていた若い女である。その女の母親が最近亡くなったのも一葉は知っていた。むろんお島だった。以前に彼女から直接「あたしはおっ母さんの云いつけを守る。ぜったい身体を売らない」なる言葉を聞いている。一葉が外出する際に合わせるように掃き掃除などをよそおって表に出て来、挨拶などをしては話しかけたい素振りを見せていた。母親の葬儀のあとしばらくしてから始めて会話に応じた時、息せき切って「小説を書く偉い先生だって知ってます。あ、あたしは横浜の慰留地に居た者で、ち、父はアメリカ人で、だからこんな顔をしてるんです」と云ってははにかむ。聞かれもしないのに素性を述べ、なぜかこの自分を見ては高ぶっている…はてどこかで経験したような…とデ・ジャビ感が一葉を襲う。