「あれ見なよ、あの茶色い髪の女の子。あの女、羅紗緬だあね」「羅紗緬なんぞであるもんかね。おおかたチャブ屋の飯盛り女あたりが、毛唐に身ごまされたんだろうよ」しかしようやく9時となり中国人監督に手で合図を送る。作業釜から一時離れてバラ夫人のもとに連れて行くのだが「こら、チャブ屋、はよ戻れよ。たいたい(大体)コブ連れて来るな」と中国語訛りで大声で嫌味を云われる。女工たちがいっせいに笑う。しかしむずがって泣くこともない、母親の手付きを無邪気に真似しては背中で微笑んでいるお島のためにと、お春は唇を噛んで毎日を堪えていた。もとは武州の零細農家の娘で困窮した両親が村に来た女衒屋に、横浜慰留地における外人専門の遊女として売り渡したのである。零細農家や部落民の娘たちをこのように、慰留地での慰安所設置を求める外国列強の御面々へ充てようと、明治政府自体が画策したことで、そこにはひがみに近い、かつての攘夷思想が介在していた。すなわち敵わぬ列強へ差し出した人身御供と云うもので、実はこれとまったく同じことが約100年後の終戦時において、連合国軍兵士らへの慰安所設置という事態で繰り返されている。当時に曰く「進駐軍から日本人女性の貞操を守るため」だそうだが、ではこれら零細農家や部落の娘たちは日本人ではないのか?はたしてそのような彼女たちの置かれた立場は推して余りあるが、それのみならず、彼女たちにはさらに世間の白い目という冷嘲熱罵が課されていた。この明治時代の「羅紗緬、チャブ屋」、また終戦時における「パンパン」呼ばわりなどは、同苦同悲を忘れ去った世間一般の、就中‘なさけない’男たちの無明というものである。鎖国で立ち遅れた日本の興国の、その礎となった再生茶女工や生糸女工たちとも合わせ、また昨今のDVとも合わせて、日本人男性らのフェミニズム軽視は遺伝子レベルになっていると云う他はない。