朝の3時に起きては幼いお島を背に負ぶって横浜公園に向かい、そこに来る仕事士のもとへと他の女たちとあらそっては駆け寄り、再生茶女工の日雇いの仕事に就くのが毎日だった。日銭は天保銭で13銭から16銭、朝7時から夕方5時までの仕事で、その間ずっと室温40度を優に超えるだろう、茶塵がもうもうと立ち上る劣悪な作業棟の環境の中で、百人以上の他の女工たちに混じって働かねばならなかった。直径60〜70㎝、高さ70㎝くらいの、熱い湯が充たされた鉄釜に手を入れては原茶を撹拌するのである。中腰で一日中立ったままの仕事で、少しでも手を抜けば容赦なく中国人現場監督の叱責の声が飛んで来る。汗びっしょりとなり終業時には手と云わず顔と云わず肌が青茶色に染まってしまう。女性としては比較的高額だった日銭が得られるのでなかったらとてもやれない仕事だった。それのみならずまだ3才でしかないお島を2時間後の9時になるまでは背に負ぶったままで働かねばならない。腰への負担もあったが何よりそのお島が心配だった。9時になれば1人のアメリカのご婦人が茶場にやって来て、お島のような幼子を始め子供たちをあずかってくださるのだった。そのまま終業時まで面倒をみてくださる。間の子のお島を特に可愛がってもくれお春にとっては神様とも拝みたいご婦人だった。名をバラ夫人と云い、1873年にアメリカの外国伝道協会から派遣されて横浜の同国ミッションホームで教師として働いていたのを、夫J・Cバラとの再婚を機に所属もアメリカ長老派に移り、かねてから目に余っていたお茶場の子供たちの為に学校(兼保育園兼託児所)を造設したのだった。室温40度を越えるだろう作業所内であっては幼児にはむごすぎる。背中のお島が気になって仕方がなかった。しかしその一目で間の子と知れる背中のお島を見ては、他の女工たちの作業中の悪口まで聞かされる。