これに何の疑問も言葉も差し挟むことなく一葉は私に手を預けたまま私と歩を進め始めた。林の一角に何かオーラのような暖かいものを感じる。時空の割れ目とすぐに悟った。もうすぐ、一葉はいなくなる。このやわらかな、温かい手を、その感触を私はいつまでも覚えていよう。ありがとうございました…。
 このまま、豊穣の感覚のままで居れるような塵の世ならば私も一葉も苦労はしない。至福の、一番大事な今のこの瞬間でさえ、世の澱と軋轢は容赦なく襲い来る。「このプータロー!」と大声で罵ったあと悪ガキどもが爆音を轟かせながら公園の周囲を車でまわりはじめた。一瞬顔をしかめてそれを目で追う私に一葉が「こうしてあなたに身を寄せていると温かい。冬なのに身が火照って夏のようです、ほほほ。そう云えば林の向う側に何か蛍のような光が舞っているのが見えます」。「え?蛍?」と思わず聞き返す。ああ、そうか、悪ガキの車や他の車群が一葉にはそう見えるのかと合点する。「ええ、蛍が。それで思い出しましたが、先程の‘尚泣け’とおっしゃるなら、私は世の無体と無明を云うよりは、自らのそれを泣きたい気がします。私にはまだ何も見えない、私の目をふさいで、すべてを邪魔しているものの正体が。歌にすれば、‘思はめやまとの蛍の光なきしみのすみかとなさんものとは’とでもなりましょうか、ほほほ。いまだすべてが暗うございます…」。
確かにそうだ。世が人がというよりは自分の無明こそが自分を更生させず、闇に引き止めているのかも知れない。一葉に負けぬいまのこの不遇を「どうしようか」ではなく、ひたすら自分は「どうあるべきか」を探り、そして「大事なものは何であったか」を求め続けることが肝要なのだろう。しかし云うは易しである。今晩これからも、また私のこれからの人生も、それぞれ闇はなお深くなるのだろう。一葉同様光はまだいっかな見えない…。