しかし彼女に於けるこのうっ積が、ただ単にそのことだけによるのではないことも私にはわかっていた。柄にもなく男気を示そうと思ったがゆえだろうか、あるいはこの超常的な時空の中にあればこそ、目には見えないどなたかの助力を受けもしたものだろうか、彼女のうっ屈のからくりが手に取るように、いまの私にはわかるのだった。それによれば、であるが、彼女における‘お蝶の存在’は本物だった。世の意向、あるいは男の意向に立脚したものなどでは更々なく、もともと彼女の内にあった、生来彼女が育んできたお蝶そのものが作品に現れたというのが正解だった。地位・名誉・金などになびきがちな世の姿に与しない、しかしその出処まではわからない自律心のようなものが彼女の内に元々あって、なるほどそれに樋口家没落以前の「銭金はいやしきもの」とする訓導をお嬢様時代に受けもして、斯くお蝶として結実したものだった。それをひねくれ根性で勘繰って、世の意向に沿うもの、などとした私の指摘は彼女にとってどれほどくやしいものだったろうか。こう考えていただきたい。小説「うもれ木」に於ける兄入江籟三を彼女の内の本地、すなわち銭金や権力になびかぬ、謂わば真善美こそとする境涯にそのまま置きかえてもらいたいのだ。すればいまの一葉の立場は自明であろう。確かに彼女はいま兄入江頼三のために妾になるのだった。自分のためではない。しかし斯く云う私が見取った彼女に於ける理を世間はそうとは見まい。いや見れまい。単にやはり「自分のため」か、あるいは「生活に負けて」妾になるのだとぐらいにしか見ないだろう。しかしいずれにせよ、それへのくやしさと、またどうしても自分で自分をあざむくような、単に自らに詭弁を弄しているだけとも見てしまう、そのくやしさもあいまって、彼女はいま斯くも堪えがたいのだった。