キュッ
バッシュが床にこすれる音が、体育館いっぱいに響いた。
ぽた、と耳の横をしずくが伝う。
はっ、とはく強い息はこだませず、バンと叩きつけられたボールが笑うように跳ねた。
ボールを追い越さず、離さず、体勢を低くして走る倉山(くらやま)くんは、前を見据えてしっかりとした足どりをしていた。
こんなに上手にドリブルをするひとを、倉山くん以外には知らない。
倉山くんがちらりと、キャプテンの原町(はらまち)くんをみると、原町くんは走り出す。
シュッ、と音がなりそうなほど綺麗に指から離れると、原町くんへと大きな弧をえがいて……。これが正しいパスなんだ、と知った。
そのまま、原町くんがシュートを決める。
倉山くんは駆け寄ると、「よっしゃ」と真っ白い歯をみせ、ガッツポーズをした。
*
倉山くんと初めて話したのは、夕日が綺麗な日だった。
土曜日。塾からの帰り道、疲れを癒したくて、小さいころからお世話になっている花が咲き乱れる公園に寄ったときのこと。
空がこれでもかってくらい橙色で、太陽がこんなにかってくらいに燃えていた。
美術部に所属している私は、この空が描きたくなって、あわててスマホを取りだし、写真を撮った。
どんなに角度を変えてもうまくとれなくて、場所をうつす。花壇と花壇のあいだをぬうように。
「……あれ?」
移動した先で、彼をみつけた。
話したことはないけれど、うちの学校の生徒なら、きっと知っている。
それほどに有名なひと。
話したことがないから、声をかけるべきかどうか、悩んだ。
べつに、話しかける必要はまったくもってない。
けれど、彼もこの綺麗な空をみているんだと思うと、無性に語りたくなった。私は空が好きなのだ。
……1歩。近づいて、後悔した。
キラと光ったのだ。彼の瞳が、山吹色に染まって。
足音がたってしまい、彼がこちらを振り向く。
逃げ出してしまいたかったが、できない。
もう、逃れられなかった。
せめて、空の写真を撮るつもりで近寄った、ということにしたくて、スマホを目の前に構える。
ザッ、と彼がこちらに足を向け、歩み寄ってくる。
『こうしたら?』
私の横に並び、身をかがめて、スマホを持つ私の手に、手を添えて。
顔を覗きこみながらそんなことを言われて、写真の撮り方を教えてもらって、ぷつりと思考回路が途絶えた。
『……あ、知らないひとにやられたら困るか』
申し訳なさそうに眉を下げる姿さえも、まぶしい。
きっとこれが、かっこいいの意味。
『……知ってる。私、ちゃんとあなたのこと知ってるよ』
震える唇で言葉を紡ぐと、彼はへらりと目を細めた。
『ありがとう。
でも一応、自己紹介。俺は、倉山信太(しんた)』
倉山、信太……と頭のなかで唱える。
うん、やっぱり、知ってる。
このひとは、学校の人気者だ。
バスケ部の、イケメンだと騒がれている。
私は、そのような女子と一緒になって騒ぐようなタイプじゃない。
でも、彼の噂は毎日のように耳に入ってきていた。
だから、初めて面と向かった、という気はあまりない。
『私は』
というと、『しーっ』と、口元に人差し指をもってこられた。
距離の近さに、ドキリと心臓が跳ねた。
『園田涼香(そのだすずか)さん……だよね』
小さく首を傾けて言うから、言葉もでない。
彼くらいに有名なひと、私の名前なんか覚えていないと思っていたのに。
『園田さんの描いた絵が、文化祭で飾られてたでしょ?』
こくりとうなずく。
そのときに描いた絵は、雲で覆われた灰色の世界から、かすかに光がさし、その近くを5つのしゃぼんだまがふわふわととび、そのうちの1つがパチンと消えたようすだ。
絵の具で描くのは難しくて苦労した。
どうしても、暗くなるからだ。
灰色のところを塗るとき、水が多すぎると雲だとわかってもらえない。雲は普通、ゆったりと流れるようなものだけれど、流れる様子がくっきりとみえるから、少し濃くしないと存在がないように思えてしまう。
だからって、濃く塗りすぎると、とても暗い雰囲気を出してしまう。
私が描きたかったのは、暗さじゃない。
どんなに暗いときにも、明るさと喜びはあるということだ。
でも、すべてがすべて幸せを表しているわけでもない。そうだとしたら、空は青で塗っていた。
また、しゃぼんだまが1つ弾けたのは、いつまでも幸せが続くわけではないという意味もある。ひとは、思い出を忘れていく生き物なのだ。
明るさと悲しさを混ぜ合わせたこの絵は、いままでで1番時間がかかり、1番苦労をした。
知らなかった技法を学んだ。色の重なりを意識した。
先生にも部員にも、たくさん褒めてもらった。もちろん、自分も気に入っている。
……けど、倉山くんが、どうしてその話を?