もしも再婚すると仮定して、キムさんにだけは嫌われたくない。
「…優作?瀬奈も今言ってたんだけど、その……」
私が思わず話した内容がお父さんの事を話すきっかけになったのか、意を決した様にお母さんが口を開いて。
「前に話したと思うけど、ほら…私の離婚相手、…瀬奈に、暴力を振るってたの。それで、その事……。ずっとはぐらかしてたけど、言わなきゃいけないと思って。だから今、言っていいかな…?」
お母さんは、声を震えさせながら、けれどしっかりとした決意が見られる瞳をキムさんに向けてそう言った。
「あ、ああ。きっと、僕らの将来の為にも聞いておかないといけないだろうしね…。瀬奈ちゃんは、この話を聞いてても大丈夫なのかな?」
びくりと身体が震え、私はその反動で思わず下を向き、自分の固く握り締められた両手を見つめた。
お父さんの事は、思い出したくもないし話したくもないし聞きたくもない。
けれど、話さないと何も変わらない。
キムさんとお母さんの為にも、再婚の為にも。
だから、私は俯いたまま微かに首を縦に振った。
「…私も、話します………」
「えっ、瀬奈…?大丈夫なの?」
お母さんの心配そうな声に、私はまた微かに頷いた。
「お母さんよりも知ってる事、あると思うから。…それに、あんな事を二度と繰り返したくないから、きちんとキムさんには伝えたい」
このまま2人が再婚しなくて別れた後、キムさんに私とお母さんが話した事を笑われてもいい。
けれど、今は仮にも2人は付き合っている。
キムさんは、私のお母さんに想いを寄せている。
再婚したいと、2人は強く願っている。
私がこの後、キムさんと上手くやっていけるかなんて神のみぞ知る事だけれど。
いくら成人男性が嫌いだからといっても、これは伝えなければならない。
お母さんは既に、
「瀬奈が生まれた頃は、あの人は全然そんな怖い事はしなくてね、優しかったの」
と、話を始めている。
だから、私は。
「……でも、私が物心着いた時…6才位の時から、お父さんは変わっていきました」
重い重い口を、ゆっくりと開いた。
私は、幼い頃から超が付く程のお父さんっ子だった。
何をするにもお父さんの真似をして、お父さんの職場でお父さんと同じ事をしたくて、家で泣き喚いた事もある。
“散歩”という名目で2人でポテトを買いに行って食べたり、暗くて街灯の光が当たらない木々の中を、お化け屋敷だと仮定して歩き回ったり。
お父さんは私がねだったものは値段が高くない限りほとんど買ってくれたし、だから私は買って貰ったものを大切に使っていた。
朝早くに起こして遊んだ事も数え切れない程あるし、夜遅くまで一緒に起きてテレビを見ていた事もある。
いつもお父さんは笑顔で、お父さんに怒られた事もほとんど無くて、お父さんと居たらいつも楽しくて。
家族皆、笑いが絶えなかった。
けれど。
事の始まりは、今から8年前の、小学1年生のある日。
その日に、私とお父さんの楽しかった日々は終わりを告げる事になる。
「瀬奈、お茶」
「うん、分かった!」
お母さんは買い物に行っていて、お父さんは仕事が休みで家に居た。
お父さんとほぼ1日中一緒に居れる、最高の日。
あの頃の私は、お父さんの力になれる事が嬉しかった。
私にとっては、お父さんのお手伝いが出来ることが純粋に嬉しくて。
だからあの日も、私はいつも通りお父さんの為にお茶を渡そうと、冷蔵庫へ向かった。
彼の口調がいつもと少し違う事に、微塵も気付かずに。
「お父さんのお茶ー」
そう言いながら、私は他の事も考えていて。
(私、オレンジジュース飲みたいな)
だからだろうか。
私は、自分の分のコップとお父さんの分のコップ、どちらにもオレンジジュースを注いでしまっていたのだ。
それに気付かず、私は、
「見て、出来た!」
と、いつもの様に誇らしげに言いかけたけれど。
「っ……?」
右肩と首に違和感を感じ、言いかけた声は喉の奥で止まってしまった。
何か、冷たいものが首筋に当たっている気がする。
しかも、後ろにお父さんの気配を感じる。
(お父さん?)
「お父さん?」
いつも通り、私はお父さんの方へと振り返ろうとしたけれど。
「おい」
お父さんの冷たい口調が、私を振り向かせる事を許さなかった。
「っ…?」
今までに聞いた事のない声に、お父さんっ子である私もさすがに驚く。
お父さんの口から、“おい”と発せられたのだ。
信じられなかった。
そもそも、その言葉が誰に向かって言ったものなのかもよく分からない。
「何じゃないだろ、お茶はどうしたんだよ」
(えっ?お茶ならここに……)
そう思い、私は2つのコップを見て。
「あっ……」
自分のしでかしたミスに気付いた。
「間違えちゃった…今から入れ替え……」
「うるせえな」
(!?)
お茶に入れ替えようと、お父さん用のコップを手に取った瞬間に聞こえてきた、お父さんのとげのある言葉。
「お前って、何やっても使えねえのな」
「えっ……?」
後ろに居る人は、誰なのだろう。
私の知っているお父さんは、私に1度もこんな乱暴な言葉遣いをした事がなかった。
(何っ……?)
「何やってんだよ、さっさと入れ替えろよ!」
彼の言葉の一言一言が、透明で綺麗な輝きを放っていた私の心に、どす黒い色を塗っていく。
「うっ……」
お父さんの豹変ぶりに、私は既に目に涙を貯めながら、震える手でお父さんのコップを掴んだ。
口もつけられていない、注いだばかりの私の大好きなオレンジジュースをシンクに捨て、また冷蔵庫を開けようとして。
(あれ、包丁が……)
私は、いつも包丁が入っているキャビネットが開かれていて、包丁が1本無くなっている事に気付いた。
(何で?あ、お料理に使ったのかな)
そう思いつつ、私はお茶の入った大きなペットボトルを取り出し、それを小刻みに揺らしながらお父さんのコップに注いだ。
そして、冷蔵庫にまたペットボトルをしまいながら、何気にひんやりとしている右肩に目を向けると。
「ひぃっ………!」
私の肩には、無くなっていたはずのあの包丁が置かれていた。
その刃は、紛れもなく私の首筋に押し当てられていて。
「お、とうさ……?」
6歳だろうと、私は今の事の重大さに気付かないほど鈍感では無い。
私の首に当てられた包丁と、それを持つ父親。
(何、するの……?)
「んだよ、出来たらさっさと運べよ!」
どうして、急に私に当たってくるのだろうか。
「…っ、うん」
自分の真横に包丁がある恐怖は、言葉では言い表せない程恐ろしいものだった。
(何で、何で……?)
(っ…)
時代劇のドラマ等で、武士が誰かを刀で斬るシーンがあるけれど、お父さんはそんな事はしないだろう。
私がただ、変に考えすぎているだけ。
子供心ながらに、何とか自分に言い聞かせた私。
けれど。
「さっさと運べって言ってんだろうが!お前の耳は無えのかよ!」
必死に自分に言い聞かせていたせいで、2つのコップすら持っていなかった私に、お父さんからの罵声が飛んだ。
「うっ……」
(怖いよぉっ……)
既に、私の唇はわなわなと震えていた。
「おい、聞こえねえのかよ!?まさか俺にやらせようとか思ってねえよな?」
そして。
トンッ………
お父さんは、包丁の腹の部分で私の肩を叩いた。
「いっ………!?」
血は出ていない。
けれど、包丁の刃は私の首に向けられているのだ。
(死ぬっ…!)
コップを運ばなければ、このままではお父さんに殺される。
包丁で、刺される。
そう確信した私は、ぶるぶる震える手で2つのコップを掴んだ。
とは言っても、手が震えているせいでコップの中のお茶とオレンジジュースは小刻みに揺れていた。
(運べば、大丈夫……)
ゆっくり、ゆっくりと。
私の首に突き付けられた包丁は、未だに離れない。
後ろからは、お父さんがその包丁を握ったまま付いてくる。
お父さんが包丁を握っている事が、当たり前だけれど嫌で嫌でたまらなくて。
(あと、少し……)
あと3歩でテーブル、という所まで来て、私が少し気を抜いたその瞬間。
「おい」
たったそれだけのお父さんの言葉に、私はこれまでに無い程酷く反応してしまったのだ。
「ひっ!」
驚いた拍子に、左手から私のコップが滑り落ちる。
私の分のオレンジジュースが、落下する。
その瞬間、全てが、私の目にはスローモーションの様に映った。
バリンッ……
私の足元に落ちたコップは割れ、中に入っていたオレンジジュースは、床に叩きつけられた衝撃で私の周りに小さな水溜まりを作っていた。
(どうしよう、お父さんに…!)
きっと、オレンジジュースはお父さんの足にもかかっただろう。
(怒られる)
今まで、お父さんに怒られるなんて考えた事もなかったのに。
それなのに、そんな風に確信してしまう私の心は、恐怖で埋め尽くされていた。
「……ふざけんなよ」
やはり、お父さんは先程よりも怒っていた。
「っ、ごめんなさ……」
首筋の包丁に力がこもった気がして、余りの恐怖に耐えられなくなった私は、大粒の涙を零し始めた。
「おら、歩けよ!」
「っ……う……」
私の履いていた真っ白なお気に入りの靴下は、オレンジジュースのせいでオレンジ色に染まっていた。
しかも、ガラスの破片で切ってしまったのか、靴下の1部分が赤く染まっている所もあった。
(痛いっ……)
それでも、私は歩みを進めた。
ガラスを避けているはずなのに、私の両足の靴下の色は、オレンジ色と赤色の斑に早変わりしていて。
どんなに足が痛くても、歩みを止められない。
歩く度にガラスが刺さり、時には食い込んでくるのに。
足にかける重心をこまめに変えるしか、きちんと歩く方法は無かった。
そうして、何とかお父さんの分のお茶をテーブルに置いたその瞬間。
「お前本当にふざけんなよ、俺の事舐めてんの?」
豹変したお父さんからの、罵声。
「ううんっ…舐めて、なっ……」
大好きだったのに。
お父さんも、前までは、
『瀬奈は、お父さんの目に入れても痛くないよ!何でだと思う?それはね、お父さんが瀬奈の事大好きだからだよ!』
と、溢れんばかりの笑顔で言ってくれたのに。
今では、抱き着いてキスが出来る程好きだったお父さんの方へ、振り向く事すら出来ない。
それなのに。
「お前みたいな使えねえ奴は、刺してやろうか?」
どうして。
「や、だぁ…、何でっ、…!?」
私が恐怖と闘いながら、必死に謝っているのに。
お父さんは、聞き耳を持ってくれない。
どうして、“刺す”なんて言ってくるのだろう。
そして、私が死ぬ気で置いたコップを、お父さんは勢い良く掴んだ。
その衝撃で中のお茶が揺れて零れ、私の頭に少しかかる。
「ううっ……」
お父さんが少なくなったお茶を勢いに任せて飲む音に、またもや涙が零れる私。
髪の毛を滴るお茶は、私の肩を濡らしていって。
ポタリポタリと、その水滴は包丁にも垂れていく。
「おと、さ……、もうこれ、離してっ……」