ずっと、我慢をしてきた。
全てを我慢すれば、いつか世界は変わると信じていた。
私の事を笑って受け入れてくれる様な、そんな優しい世界。
けれどそれには、『家族』という存在が必要で。
私は、知らなかった。
『家族』と居ても、そこに自分の居場所が無い生活があるという事を。
私は、いつも孤独だった。
だからなのだろうか。
ずっと、兄が欲しいと思っていた。
物心ついた時から家にも学校にも居場所が無かった私にとって、唯一の心の救いは“もし自分に兄が居たら”と考える事だった。
空想の世界に入る事でしか、自分を保てなかった。
いつも傷だらけで泣いていた私にとって、空想の世界で私を助けてくれるヒーローの様な存在しない兄が、私を元気づけてくれた。
もしも私に兄が居たら、苦しい事も悲しい事も、嬉しい事も全部報告出来るのに。
ねえ、お兄ちゃん。
ずっと“お父さん”という存在にがんじ絡めになっていた私を解いてくれて、いつも泣いていた私を笑顔にさせてくれたのは。
他でもない、あなたなんだよ──。
「こんばんは、瀬奈ちゃん」
急な、挨拶。
帰ってきて早々投げ掛けられたその声に、びくりと身体が震える。
(大丈夫、この人は違う)
頭では違うと分かっているのに。
彼が、“お父さん”ではないと分かっているのに。
つい先程、自分で自分に気合を入れたはずなのに。
(っ、おかしい、な…)
それなのに、身体の震えが止まらない。
本当は、彼と会うのを少し楽しみに帰ってきたはずだったのに。
「…こん、ばんは……」
私-南 瀬奈(みなみ せな)-は、俯いていた顔を上げて声を絞り出した。
そこには、優しそうな笑みを浮かべた“キムさん”と、お母さんが居た。
「っ……」
「初めまして。今度から、君のお義父さんになります」
まだ、私は何も言っていないのに。
“キムさん”は笑顔で私に向かってそう言ってきた。
何故、こんな事になったのか。
そう。
こうなったわけは、昨日の夜まで遡る。
楽しかった冬休みが終わり、3学期が始まって1週間程経った、水曜日。
「瀬奈、話したい事があるの」
夕方。
いつもの様に中学校から帰ってきた私を迎えたお母さんの一言は、それだった。
「えっ、どうしたの?」
私の家は母子家庭な事もあり、お母さんはいつもこの位の時間帯には家に帰って来ない。
それなのにお母さんが家に居る事が不思議で、それよりも彼女が妙に真面目くさった顔をしているのが可笑しくて、私は少し笑いながら彼女に近付いた。
「んーとね…話、長くなるかもしれないから、リュック置いて、着替えてきて。話はそれから」
(え、何だろう…)
中学の話だろうか。
それとも、高校に上がってからの話だろうか。
私の通っている学校は中高一貫校で、エスカレーター式で高校へ入学する事が出来る。
だから、この受験シーズン真っ只中の1月にも関わらず、私は受験生とは違う中学3年生の生活を送っていた。
つい先日まであった冬休みも、私がした勉強は学校からの宿題だけだ。
あとはずっと、友達と遊んだり家でごろごろしたりして過ごしていた。
(勉強の事かな?…でも、私学校のテストの点数まあまあ良いし、だから…うん、何とかなるでしょ)
先程まで中学校に居たせいで、私の考えの中心はずっと勉強の事だけで。
だから、お母さんに言われた通りにリュックを置き、部屋着に着替える間も、私はずっと勉強について言われると思っていた。
「着替えたよ。…で、話って?」
暖かな冬用の部屋着に身を通した私が、再びママの元へ戻ると。
「…瀬奈、座って」
今まで見た事がない程神妙な顔つきをしたお母さんが、居た。
(お母さん…)
いつものお母さんは、こんなに真面目な顔をしない。
これからされる話は、明らかに勉強関連ではないと察した私は、
「うん」
と素直に頷きながら、リビングの椅子に座った。
「瀬奈。今から話す事は大事な話だから、驚かないでよく聞いてね」
そう言いながら、お母さんも私の目の前に座って。
「う、うん…」
私は、微かに頷いた。
それを見た彼女は、長い間を空けた後にもう一度口を開いて。
「お母さんに、今付き合っている人が居るのは、知ってるよね?」
そう、聞いてきた。
私のお母さんとお父さんは、今から6年前-私が小学3年生-の時にある理由で離婚をした。
私はお母さんの方に引き取られ、それからずっと2人だけで生活をしてきた。
シングルマザーとしての子育てが厳しいという事は、その頃はまだ小学生だった私にも少しは理解出来ていて。
私の家は団地にあり、その中でも1番家賃が安い所だ。
お母さんは昼も夜も仕事詰めで、定時に帰る事はほとんどなく、いつも残業。
朝起きてから夜寝るまで1度も姿を見ないという日も、もちろんあって。
そんな彼女は、お父さんと離婚してからしばらくは“恋”を遠慮していた。
けれど、私が中学2年生の時から、お母さんはまた新たな男性と付き合い始めていた。
私はその男性と1度も会った事はないし、話した事もない。
けれど、たまにお母さんがその人の話をしてくれて。
凄く、幸せそうな顔をして。
その会話の内容から、お母さんがお付き合いしている人は離婚したお父さんとは真逆で、とても優しい人なんだというイメージはついていた。
だから私は、
「うん、知ってる」
と、頷いた。
「…で、その事でね」
そこで、お母さんはふっと息をつき、一息に次の言葉を吐き出した。
「お母さんね、そのお付き合いしている人……キムさんと、再婚する事にしたの」
その言葉の直後、長々しい沈黙が私達を包んだ。
彼女は、私の反応を待っている。
それに対して、私は。
(ん、“キムさん”?えっ、もしかして韓国人なの?)
(いや、今はそれどころじゃないよね!再婚!?何、再婚ってどういう事?)
(再婚って、一緒に暮らしたりするあの再婚だよね?…だから、夫婦になって家族になる、あの再婚…だよね…)
他にどんな再婚の意味があるのか分からないけれど、そんな変な考えをしてしまう程私はパニックに陥っていた。
(嫌だ待って、もう決まった話じゃないよね!?)
「待って待って再婚!?何それ、えっ?」
「誰と誰が再婚!?待ってよ!ええっ、もうそれ決定しちゃったの!?」
「お母さん、それ本気で言ってるの?」
と、心の中で叫んでいた事をほとんど全て声にしてしまっていた。
「うん、瀬奈がそういう反応するのは分かるの。よーく分かるんだけどね」
お母さんは、目をつぶって深く頷いた。
「……瀬奈が、“お父さん”って存在を物凄く嫌ってるのは知ってるの。それは全てお母さんのせいだし、お母さんだって、もうあんな奴に一生会いたくないって思う。…でもね、キムさんは違うの」
(…何が)
(……皆同じだよ、最初は偽ってるだけで)
ついつい、冷めた考え方をしてしまう。
「どこが、違うの?」
それでも、お母さんに再婚相手について聞いてみると。
「んー、何て言えばいいのかな…。私と彼…キムさんは、会社で出会ったの。初めてお話した瞬間から、彼はお父さんとは全然違う人だなって分かったの」
「…うん。あんな人、何処を探してもまず居ないと思う」
私も、神妙な顔で頷いた。
私もお母さんも、離婚したお父さんを基準として男性を見てしまっている。
私のお父さんは、冷静に考えても人としてどうなのかと思ってしまう程酷かった。
最も、今お父さんが暮らしている所からして“やばい”と誰もが感じるだろう。
「それでね」
お母さんは、また話を続けた。
「キムさんも、私と付き合い始める少し前に離婚してて…。お互い、凄く気が合ったの」
“お父さん”とは違って優しいし、“お父さん”とは違って笑顔だし、“お父さん”と違って喧嘩した時も“お父さん”よりは怖くないし…、と、明らかに離婚したお父さんと比較しながらキムさんの印象を教えてくれる彼女。
「彼にも、離婚相手との子供が1人居てね。…男の子だって言ってたっけ…瀬奈、もしお母さんが再婚したら、兄弟が出来るの」
確か瀬奈より年上だった気がする、と言うお母さんに、私は、
「うん……」
と、曖昧に頷いた。
確かに、お母さんからお付き合いしている人の話は何度も聞いた。
レディーファーストな行動を沢山してくれたというデートの話も、少し聞いた事がある。