約束~悲しみの先にある景色~

「…待って智和、今は席ついて」


朝から彼氏感溢れる智和が、鬱陶しそうに顔を顰める輝星に向かってデレデレと話し掛けていた。


「何で?俺にもpromiseについて教えてくれたっていいじゃん、」


「教えるから今は席つこう?ね?」


「えーどうしてさ?俺は輝」


「これから朝の学活が始まるからだよ中田クン、分かったらさっさと席につけ。どうせお前の席岡田の隣だろ、わざわざ立つ必要ないだろう」


「……はい」


「全く、朝からバカップルぶりを見せられてもなぁ。まあ悪いとは言わないけど、何かなぁ…。という事で学活始めます、起立ー」



周りからは、くすくすと笑いが聞こえる。


輝星は無表情だけれど、話のネタにされた智和は唇を尖らせてむすっとしていた。


(2人共可愛い)


今日もまた、平穏な学校での1日がスタートした。




と、思ったのだけれど。


「今日は理科の総復習です、プリント全員に渡った?はい渡ったね、じゃあどんどん解いて下さい、終わったら解答は前にあるので各自プリント取り来てください。プリントは5枚あるからね、誰1人寝かせないよー。じゃあ始めてどうぞっ」


1時間目の理科でプリントを説いている最中も、
「新年早々授業とか萎えるので、今日は伝えてあった通り数学はテストをします。机の上は筆記用具だけね。早く終わったからと言ってテスト用紙に落書き禁止ね、それ回収するので。あ、カンニングしたら分かってるね?……はい始め」


2時間目の数学でテストを行った時も、


「…公民の授業って何処までやったっけ?日本国憲法は終わったっけ?…え、2学期の試験範囲だった?あ、それはごめん。…じゃあ、教科書の140ページ開いて下さい」


3時間目の、先生も生徒も曖昧な記憶の中で公民の授業を聞いている時も、


「古文の問題解くのと先生の冬休み中の話を聞くのならどっちがいい?…そうだよね。…あれは、12月29日の事。つまり去年の事です。…先生は、無性にお腹が空いたのでコンビニに……」


4時間目の国語で、何故か先生の冬休みの過ごし方に耳を傾けていた時も、


「どうも君達、4時間か5時間ぶりだね。今から学活始めます、きりーっ……中田クン懲りないねさっさと座れ。えっ?今日は何するかって?そりゃもちろん、3学期の目標決めだよ。中田は、『チャイムの前の着席を心掛ける』とでも書いとけはい起立ー。礼ー」


5時間目の、郷先生の見事な突っ込みから始まった学活の時間も、


頭の中は、キムさんとその息子さんの事、それから眠気と闘う事だけでいっぱいだった。
(キムさんは怖くなかった、だからキムさんの息子さんも怖くない)


(昨日、優しいって言ってたし)


(…部活を休んで家に帰ったら、もうキムさん達は居るんだよね?)


(……お父さんの事は、何が何でも思い出さない様にしないと、)


(待って、キムさんは息子さんに伝えてくれたんだよね?私の過去を)


沢山沢山同じ様な事を考えて、悩んで、結局出た結論は、


(……ともかく、憂鬱だ)


家に帰る事自体が、新しく家族となる人達に会うこと自体が、憂鬱だという事だった。


もちろん、家族として毎日顔を合わせていたらこんな感情は消え失せるのだけれど。


キムさんの息子さんに、義理の兄になるであろう人に会ったことも無い今から、私は不安を募らせるばかりだった。



それは、


(…そういえば、朝の時間に私は輝星と、promise?protect?…何かそういう感じの名前のアイドルグループについて話したなぁ)


(メンバーは5人…あれ、7人だっけ?)


(何か、それぞれのメンバーに暗い過去があった、んだっけ?あれ?)


(その過去の内容は、いじめと、虐待と、…虐待と、虐待?…あれ、虐待されてたメンバーはこんなに居なかったよね?)


と、輝星と話していたアイドルグループの名前がファンの名称とごちゃ混ぜになり、メンバーの暗い過去が全て“虐待”に置き変わってしまう程だった。
そして、運命の放課後。


「…じゃあね、きっき」


帰りの学活の直後、掃除も何も無かった私がリュックを背負って輝星に別れを告げ、マフラーを巻きながら人と机の間をすり抜けようとした時。


「うん!じゃあ…え、瀬奈部活無いの?また休むの?」


そう、後ろから彼女が話し掛けてきた。


「うん」


昼休みに顧問の先生に伝えに行ったから、あとはさっさと帰宅するだけだ。


「そっか、じゃあねー」


あっ、promiseの曲聴いてね!絶対デビュー曲から聴いた方が良いよ!、とか何とか大声で伝えてくる彼女に軽く頷き、私は足早に教室を出て行った。


promiseの曲は後で聴くとして、今はそれどころでは無い。



(寒い寒いっ!)


そう思いながら早足で桜葉駅へと向かい、次は小走りで丁度到着した電車に駆け込む。


学校では寝不足のせいで少し眠かったのに、電車に乗って家に向かっている今は全く眠気が無い。


緊張と不安と少しの期待とその他の感情が、ごちゃごちゃになって私の頭の中を支配していた。


周りには同級生や先輩後輩がいるけれど、挨拶をする余裕もなく、私はマフラーを少し緩めながらスマートフォンを開いた。
案の定、“ニャンコメッセージ”でお母さんか
ら、


『さっきキムさんと息子さんが家に来たから、寄り道しないで早く帰ってきてね』


という連絡が来ていた。



“ニャンコメッセージ”ー通称ニャンコメーは、今携帯を持っている人のほとんどがインストールしているメッセージアプリだ。


アイコンは、白い背景に2匹の猫が尻尾でハートマークを作っている可愛らしいものだ。



このアプリではメッセージを送る事はもちろん、友達とトークグループを作ったり通話も可能で、ニャンコメを持っている人のコードや暗証番号を読み取る事で、手軽にお互いメッセージのやり取りが出来る。



(嘘、もうキムさん達来てるの…!仕事終わるの早くない?切り上げてきたのかな?)


お母さんに、


『分かった』


とメッセージを送った後、ニャンコメのアプリを開いたり閉じたりしながら、私はそんな事を考える。


(待たせてるのは申し訳ないよね…。早く乗り換え駅に着かないかな)


急行ではなく各駅停車の電車に乗ってしまった事を今更後悔しながら、私は冷たい手すりを握り締めた。


ふと上を見上げると、電車に貼られたポスターに、ブランド物のスマホケースを持って笑っているpromiseの面々が写っていた。



(あぁぁぁ……駄目だ家帰る前に死にそう…)


あれから約20分後。


乗り換え駅のホームで死に物狂いで走り、後少しで発車しそうになっていた急行電車に飛び乗り(駆け込み乗車は駄目だと分かっているけれど、今は仕方が無い)、自分の家の最寄り駅から競歩をしながら団地へ向かった私は、自分の家の目の前の駐車場の前で息を切らして足を止めていた。
文化部なのに、体育の授業は余り好きではないのに、それでもこんなに走った私を褒めて欲しい。


競歩のせいでマフラーははだけ、寒くて着ていたコートのボタンは走っている最中に暑すぎて自ら開けてしまった。


「あーもう無理、辛ぁっ……」


両膝に手をつき、私ははぁはぁと浅く呼吸を繰り返す。


(待って…呼吸、整えてから、家行こう……)


3人を沢山待たせているのは本当に申し訳ないけれど、流石に家に帰ってから息を整えるのは駄目だと思うから。


(それにしても、体力無さすぎでしょ私)


そう自分に呆れながら、頭の中をぐるぐると支配しているのは。


輝星の説明してくれたpromiseの事と、キムさんの事と、キムさんの息子さんの事と。


そして、何故か今は刑務所に居るお父さんの事だった。


(げっ!…無理無理無理お父さんの事は忘れないと忘れるの忘れて忘れたよねうん忘れた)


今まで少し暑いくらいだったのに、お父さんの事を考えた瞬間に一瞬にして足元から悪寒が走る。


そして、お父さんの事を忘れようとする事について自問自答を繰り広げた私は、


(叩かれたのも蹴られたのも窒息しかけたのもお風呂の中に沈められたのも身体中縛られたのも、裸にさせられて沢山触られたのも色々投げつけられたのも酷い事ばかり言われたのも、全部知らない知らないとにかく何も言っちゃ駄目)
息を整えながら、必死にお父さんにされた数々の虐待の思い出を、今だけで良いから脳内から消し去ろうと自分に言い聞かせた。



例え、キムさんやキムさんの息子さんを昨日の様にお父さんに重ねてしまったとしても、何が何でも絶対にお父さんの事は私の口からは言わない。


昨日キムさんに伝えた事は、きっとキムさんが彼の息子さんに伝えてくれているだろう。


私が話すお父さんについての情報は、必要最低限の事だけ。


話したら、きっと苦しくなる。


誰の前であろうと、涙が止まらなくなる。


だから、何があっても、今のうちは、キムさんやまだ見ぬキムさんの息子さんと打ち解けるまでは。


自分からお父さんの事を話すのは、控えよう。


もしも、キムさんが息子さんに私の前のお父さんについて伝えていなかったら…。


その時は、本当に打ち解けられて本当の家族の様になった暁に、キムさんの息子さんに伝えるまでだ。




「…っ、よし」


色々考えた挙句、何とかお父さんの事を頭の中から押し出した私は、体制を整えて自分の家へ向かおうとした。


と、そこで。


「おおっ、…!」


ふと視界に映った駐車場の近くの1台の車を見て、私は思わず感嘆の声をあげた。
朝は無かったはずの黒い高級車が、駐車場の近くに停っていたからだ。


それは、車の種類の中ではきっと有名であろう外車ブランド、ベンツ。


「すっ、凄……こんな所にベンツ……」


こんな所、という表現が適切か分からないけれど、少なくとも私はこの団地に住み始めてからベンツ等の高級車が停車しているのは見た事がない。


「え、お金持ちじゃん……。そんな人住んでたの…?」


確かに心の中で呟いているはずが、全て声になっている。


(あれ、でも、この車駐車場に停まってない。てことは、住んでる人じゃない誰かがこの団地に来てるんだ)


この短時間で要らない推理を繰り広げた私は、探偵の気分になってふっと笑みを零した。


(凄い…お金持ちじゃんお金持ち。凄いなぁ……?あれ、誰か居る)


たかが車の種類でその家の貧富を突き止めるのは駄目だと思うけれど、まあ仕方ない。


そうまじまじとベンツを見つめていたから、私は運良く(運悪く)、運転席に座っている男の人と目が合ってしまった。


他の席には明らかに誰も居ないのに、ビシッとスーツで決めている眼鏡を掛けたその男の人は、それが当たり前だとでも言う様に運転席から動かない。


(あ、誰かが帰ってくるのを待ってるのか)


目が合ったので一応その人に会釈をし、私はそそくさとその場を後にした。