そう思うのに…

心配そうなあかりに、私の心よりも頭よりも正直な口が、言葉を発した。

「ごめん、あかり。このオジさんに送ってもらう。お姉ちゃんのお友達だから」

あかりの顔が一瞬で、安堵の顔に変わった。

「あ、なんだ!!澪さんのお友達なんですか?それなら安心!!でも、帰っちゃうの?」

「ごめんね。なんかちょっと酔っ払っちゃった」

「そっかぁ」

「佐々木くんもありがとう。ごめんね、せっかく言ってくれたのに。今日はお姉ちゃんのお友達の、このおじさんに送ってもらうね」

自分の心を危うく認めてしまわないように、何度も"お姉ちゃんの友達"と"オジさん"を連呼した。

「ふーん。そっか…」

少しだけ納得のいかない様子の佐々木くんが、携帯を差し出して言った。

「ライン教えて?」

「え…?えっと…」

話が終わらないうちに、新さんの声が聞こえた。

「ったく。匠、お子ちゃま送るから」

「ああ。陽菜ちゃんまたね。ちゃんと危なくないように、澪に連絡してくから」

「あ、はい」

タバコをくわえたまま、お財布からお金を取り出している新さんの口元が、少し笑った。

その動作の一つ一つが男の人で、大人で、目をそらすことができなかった。

新さんが私の腕を掴んでお店を出た瞬間、私の方に振り返った。

それはあまりに突然で…

目の前の緩んだネクタイを見つめて、平静を装った。

「陽菜、お前…危なすぎ」

「え?」

「危うく、お持ち帰りされてたぞ」

「え…お持ち帰り?そんなことないっ」

「は?佐々木とかいう奴に、思いっきり狙われてる」

「違う!私が帰りたそうにしてたから、送ってくれるつもりだったんです」

「…陽菜、お前…本当に澪の妹?」

「えっ?」

「澪なんて、お前の年齢の時"食えるものなら食ってみなさい"オーラ放ってたぜ?」

「え…。私は、違うの?」

「そんなんじゃ、すぐ食わられる。帰るぞ」

新さんの言葉が胸に突き刺さった。

そうなんだ…

私、こんなんだから…

あの時も、樹くんの時も…

原因は自分にあったんだ…

蘇る辛い記憶に、涙腺は勝てなかった。

新さんが親指で涙を拭って一言、言った。

「泣くくらい嫌なら、最初から行くなよ。合コンなんて結局、遊ぶ女見つける場所だろ?」

その言葉はどうしても、許せなかった。

「何も知らないくせにっ!!」

新さんをキッと睨みつけて、言った。

自分が悪い。

でもこの合コンを計画してくれた、あかりや松本くんのことは、侮辱されたくない。

「もういいです!1人で帰れますっ!!オジさん、さようならっ」

新さんに背中を向けて歩き出すと、どんどん涙が流れた。

自分が情けない…

悔しい…

結局私は、お姉ちゃんと楓がくれたピアスをずっとつけていても、いつまでたっても成長できない女。

歩く私の腕を、大きな手が掴んだ。

「陽菜…悪い」

「…」

「分かんない…」

「え…」

「俺は何もわからないし、何も知らない」

「…」

「どうして俺がこんなにムキになるのかもわからないし、陽菜のことも何も知らない」

私の腕を掴んで俯いた新さんが、少しだけ赤いような気がした。

「だけど…一人で帰すつもりはない。送る」

私の手を引いて歩き出す新さんに、いろんなものが吸い込まれていく。

お願い。

この想いを…

恋にしないで。

広い背中、広い肩幅。

少しだけ焦げ茶色の、サラサラの髪。

目の前の新さんのことを、これ以上じっくり考えたくなくて、会話を探した。

「あの…」

「ん?何?」

ずっと手首を掴んだまま、一歩前を歩く新さんが振り返らずに答えた。

「お姉ちゃんの大学時代の、お友達なんですか?」

「あー、澪とは高校から。澪を通して楓や匠と仲良くなった」

「あ、そうなんですか」

会話が終わってしまって、沈黙になってしまった。

一生懸命探して、次の質問を思いついた。

「あの…」

「ん?質問2?」

「あ、はい」

「はは、何?」

「お仕事はコンピュータ関係ですか?」

「え?何で?」

「さっき匠さんとなんかそういう感じの、お話してたみたいなんで」

「盗み聞き?」

「え!!…ごめんなさい」

立ち止まって振り返った新さんの顔を見上がると、少し意地悪く笑っていた。

「はは、嘘だよ。ああ、コンピュータ関係」

低く響き渡る声に、心臓が張り裂けそうなくらい動いた。

これは、違う…

たぶん、こんな大人の男の人に慣れていないから。

絶対に違う。

強く動きすぎる鼓動に、言い訳をしていた。

「それから…」

「はは、質問3?」

「さっきは…ごめんなさい。私…」

「いや、俺が悪い。気にするな」

振り返って新さんが頭を優しくポンと撫でた。

その時、少しだけ手首を掴むその力が、強くなった気がした。

あっという間に駅の近くまで来てしまった。

「タクシー拾うから待ってろ」

そう言って、タクシー乗り場に向かう新さんのスーツの裾を引っ張った。

「あ、定期あるんで電車で帰ります」

「はは、そうか。お子ちゃまに贅沢はいけないもんな」

「おじさんは贅沢に慣れちゃダメですっ!!」

「はは」

なんとなく裾を持ったまま人混みの中、駅の階段を上ってしまった。

どうしよう…

離したくない。

何なの?

この感情。

それでも、改札口がすぐ目の前に見えた現実の景色が、私を物思いの世界から引き戻して、スーツの裾から手を離した。

「あ、ありがとうございました」

顔を上げると、改札を通り過ぎた新さんが向こうから呼んできた。

「おいっ、陽菜早く来いよ」

「え!!新さん、いつの間に!?」

「陽菜がボーッとしている間に、切符買ったけど?早く来いよ」

もう少し、一緒に居られるんだ。

急いで定期を取り出して、新さんのところに駆け寄った。

「はは」

「え!」

「いや…なんか。んー、何でもない」

とても自然にまた、手を握られた。

さっきまでとは違って、5本の指が一本一本絡まった。

はぐれてしまわないようにだよね…

新さんの表情を見るのも、私の表情を見られるのも恥ずかしくて、俯いたまま歩いた。

人混みの階段を上って、ホームで電車を待つ時も、新さんの固い手と指だけに全神経が集中してしまう。

大きい手に、長い指。

どうしてお姉ちゃんの知り合いだとしても、今日会ったばかりの人に、私はこんな風に手を引かれているんだろう。

"離してください"と言えば、それだけでいいのに、なぜかそうしない自分。

離してもらわないといけない理由がないからなのか、離して欲しくないからなのか、考えないようにすればするほど、胸がキュンと締め付けられるのがわかった。

金曜日の夜の満員電車は、恋人同士、友達同士、職場の仲間、一人で乗り込む人、私たちは…何?

どれにも当てはまらない。

それでもこんな風に、手を繋いでいる。

見上げると新さんと目が合ってしまったので、思わずどうでもいいようなことを聞いた。

「私のこと、見かけたことあるんですか?」

「あー、昔な。友達と澪の家に行ったことあるんだ。その時に小さい陽菜がいた」

新さんが優しく微笑んだので、頬が熱くなった。

もうこれ以上、質問するのはやめよう。

あまり新さんのことを知りずぎると、抜け出せなくなる。

もっと…

だけど、これ以上はダメ。

二つの感情が綱引きみたいに、引っ張り合いをしていた。

電車に乗り込むと隅っこに私を追い込んで、新さんが前に立ち塞がった。

少しだけ香る、爽やかな香水の香りとタバコの香り。

俯いて、身体の前で荷物を握りしめていた。

「陽菜、悪い…押される」

その瞬間、新さんの身体が密着してしまった。

私はただ、俯いたまま密着する新さんの厚い胸板を感じて、ドキドキが止まらなくなった。

止まって…

私の心臓、止まって…

ギュッと目を瞑った時、

「ごめんな」

頭上から新さんの低い声が響いた。

「え?」

「いや、なんか…苦しそうっていうか、悪い」

「いえっ」

気がついた。

私、男の人と話すことに慣れていない。

あの日から、男のことはなるべく親しくならないように避け続けて、大学に入ってからはサークルの男の子とか、松本くんとは話をしたりするけれど、二人っきりで接したりすることはない。

だからこんなにドキドキしちゃうんだ。

良かった…

慣れていないから…

呪文のように、心の中でそんな苦し紛れの言い訳を唱え続ける私の髪に、優しく新さんの指が絡まっていた。

「陽菜」

「…はい」

気持ちいい…

撫でられる感覚も、胸に響く声も…

どんなに頑張っても、気持ちいいと感じてしまう。