「もう誰もこないのに、ですか」
「お前がくるだろう?」
まるで、私の為に寒い廊下を歩いてわざわざ来ていると錯覚してしまう言い草。
頬が熱を覚えほんのり紅く染まっている。
鏡を見なくてもすぐわかってしまった。
「嘘だ。また本読みに来たんでしょう」
彼の片手には小さな文庫本ざ収まっていた。いつも通り、昨夜の読みかけの本の結末が気になって、部活を言い訳に職員室を抜け出したに違いない。
右手に顎を乗せた彼が、ニヤリと意地悪ぽく笑って、視線を合わせてきた。
「お前の書く小説を、な」
真っ暗な夜を注いだ瞳が私を捕まえる。
真剣な眼差しに息を吸うのを忘れて、吸い込まれていく。
美しい夜に。
「俺は小谷野の書いた小説が好きなんだ。だから、高校最後の小説、楽しみにしてますよ、先生」
「……ありがとうございます」
その場の凌ぎでしかない『好き』が、胸に突き刺さって俯く。
嬉しいような、悲しいような、複雑な感情が混ざって苦しい。
彼の言動一つで一喜一憂してしまう自分に呆れつつ、放り投げたペンを拾い上げて、再び紙を睨みつけた。