お母さんが飲酒をはじめて
から私のなかで失われていた
家族の愛の暖かさを感じて、
思わず涙が零れそうになる。
「じゃあ、私は仕事に行くわ。
奏、あとはよろしくね。」
そう言って紗綾さんは病室の机に
置いていたスーツを羽織って
仕事に出掛けていった。
ぱたん、とドアが閉まる軽やかな
音がして、私は病室で奏と
2人っきりになった。
「結乃。」
名前を呼ばれて顔をあげる。
そこには、奏の苦しそうな
表情があった。
「ごめんな。結乃の辛さとか
分かってやれなくて。結乃が
辛い想いしてんのになにも
してやれないのがもどかしい。
もっと早く出会っていれば
PTSDもここまで酷くなかった
かもしれないのにな。」
吐き出される言葉の全てが、
奏の私に対する愛だった。
奏はなにも悪くないのに、私が
体調を崩す度に彼が1人で
自分を責めているのは
うっすらとだけど知っていた。
でも、ここまで深刻に
思い詰めていたなんて。
「私は大丈夫だよ。奏の
せいじゃ、ないから。
自分を責めないでほしいの。」
安易な言葉しかかけられない
自分が嫌になる。
「結乃も、そうだよ。結乃は
自分のことを卑下しないで
ほしい。お前は別に悪くないん
だよ。俺のことは気にすんな。
結乃のしたいようにすればいい。」
また慰められてる。
「凜は......今どうしてるの。」
ナイフをすり替えたことがバレた
ときの、凜の表情を思い出す。
憎しみに溢れているのに
何故か.........苦しそうだった。
「警察で事情聴取が続いてる。
最初はやってないって言ってた
らしいんだけど。つい3日前
くらいに自主したんだ。まぁ、
アイツもいろいろあったし。」
「どういうことなの?」
「ほら、あったじゃんか。
小学校のときの。小6のときに
起きた事件だよ。
確か『口無し事件』って
言われてたやつ。」
「口無し事件のことなら
覚えてる。凜ってあの事件に
関わってたの?ほら、私と
奏は同じクラスだったけど
凜は違うクラスでしょ。」
私と同じ小学校出身なのは
私と奏、葉音と凜の4人だけ。
私と奏が1組で、葉音と凜が
2組だったはずだ。
凜が口無し事件に関わって
いるはずがない。
私が悶々と考えていると
奏が小さくため息を洩らした。
「やっぱり、結乃は担任から
聞かされてなかったのか、
口無し事件の本当の結末を。」
本当の、結末?
訳が分からない。
口無し事件はあのとき
普通に解決していた。
あの事件に、裏がある?
私は、小6のときに起きた
「口無し事件」に思いをはせた...。
〈3年前は消えない傷〉
人生とは、自分を
見つけることではない。
自分を創ることである。
=口無し事件=
奏君と知り合ってから、
3年が経った。
驚いたことに私と奏君は同じ
小学校だということが
分かって、それからは2人で
一緒に学校へ通っている。
ぴーんぽーん。
インターホンが軽やかな音を
ならして誰かが来たことを告げた。
「はぁい。」
モニター越しに声をかける。
「早く開けなさい!なんで
鍵かけてるのよ鬱陶しい。
融通の聞かない子の癖にそんな
ところはきちんとしてるのね。」
「......っ。」
お母さんだ。
私は身体が震えるのを必死で
抑えながら急いでドアを開けた。
「おかえりなさい、お母さん。」
「そこ邪魔。」
もう、私にただいま!って
笑顔で言ってくれるお母さんは
いないんだ。
なんども言い聞かせているけど、
やっぱり寂しくなる。
私は背中に隠したプリントを
ぎゅっと握りしめた。
今日の帰りの会で配られた、
授業参観のお知らせ。
「あの、お母さんこれ...」
「邪魔って言ってんでしょ!
どいて、出ていって!」
思いきり身体を押し倒されて
床に叩きつけられた。
そのままお母さんが私に馬乗りに
なって、首をしめてくる。
「出ていって、出てけ!アンタは
私にとって邪魔なのよ......!」
涙が滲む。
参観日、あるんだ。
ただそれが言いたかっただけ。
来てくれないって分かってても
伝えたかっただけなの。
ねぇ、お母さん。
なんで変わっちゃったの...?
息が出来なくて、咳き込んだ。
目の前がチカチカする。
私、死んじゃうのかな。
そう考えたら、
ものすごく怖かった。
誰か、助けて。
「だ......れか...っ!」
もうダメだ。
そう思ったとき。
ぴーんぽーん。
またしてもインターホンが
軽やかな音をならした。
お母さんは私の首に
まわしていた手を放す。
いきなり酸素が入りこんできて、
私はそのまましばらく荒い息を繰り返した。
「どちらさまですか。」
冷たいお母さんの声に
答えたのは私の大好きな声。
「結乃ちゃんの友達の奏
なんですけど、結乃ちゃん
は家にいますか。」
奏君だ。
「ごめんなさいね。結乃は
今はまだ帰ってきて......」
お母さんが奏君を追い返そう
とするのを遮るように、
私は大声で叫んだ。
「奏くん、助けて......!」
「失礼します!」
ぶつりとインターホンが途切れる。
次の瞬間、お母さんが必死で
とめるのも振り切って奏君が
私の方へ走ってきた。
「結乃ちゃん!大丈夫?」
「奏君......。」
ほっとして、涙が溢れる。
そんな私を、奏君は
ふわりと抱き締めてくれた。
優しい温もりに包まれて、
私はぼろぼろと涙を零す。
そして直後に見た。
机を振り翳すお母さんの姿を。
「死ねぇぇぇぇぇぇえっ!」
どうしよう、このままじゃ...。
「奏君、危ないっ!」
奏君を庇うようにして私は
彼のほっそりとした身体を
抱き締めて横に転がった。
ガッシャァァァァァン!
狂ったように叫ぶお母さん。
自分の顔から流れる血。
呆然としている奏君。
怖い。怖い。怖い。
「結乃ちゃん、行こう。」
奏君に言われて、私たち2人は
お母さんをおいて家を飛び出した。
手を繋いで、知らない道だけを
選んでどこまでも走っていく。
お母さんの顔が頭から離れない。
でも。
繋いだ右手からは確かな暖かさが
伝わってきて、私に勇気をくれた。
小さな公園に着いた。
そこは住宅街から少しはずれていて、
人目につかないところ。
私たちは並んで腰をおろした。
「結乃ちゃん、大丈夫?」
奏君が自分のハンカチをポケット
から取り出して私の額から流れる
真っ赤な鮮血を拭ってくれる。
「大丈夫だよ。それより奏くんの
ハンカチが汚れちゃう...。」
「ハンカチなんて別にいいよ。
早く結乃ちゃんのその傷を
なんとかしないと。」
2人の手持ちのものでなんとか
傷の手当てをして、私たちは
やっとのことでひといきついた。
冷たい風が2人の間を吹き抜ける
なかで、私たちはお互いの無事を喜んだ。
「本当は、怖かった。」
奏君がポツリと洩らした。