「ゆいのちゃんは、この家に
住んでる人なの?」
「そうだよ。お母さんと2人で
暮らしてるの。お父さんは
いなくなっちゃったんだ。」
思わず、お父さんが離婚で
いなくなったことも話してしまう。
「へぇ。僕はね、お母さんが
いないんだ。お母さん、去年
病気で死んじゃったの。今は
おばあちゃんの家に住んでるんだ。」
かな君は、お母さんがいないんだ。
私は、お母さんのいない生活を
頭の中で思い浮かべた。
殴られることもない。
出来損ないって言われることもない。
あぁ、そっか。
普通のお母さんは私のお母さんとは
違うんだ。
普通のお母さんは優しくて、いつも
褒めてくれて抱き締めてくれるんだ。
私も、そんなお母さんがほしい。
「おばあちゃんはね、すっごく
優しいんだ。いつも僕のことを
褒めてくれるの。」
嬉しそうに語るかな君が、
実を言うとすごく羨ましかった。
「かな君は、いいね。そんなに
優しいおばあちゃんがいて。」
そう言うと、かな君は少し
嬉しそうに笑って、それから
ものすごく真剣な表情になった。
彼の手が、私の右目の上にある
長い切り傷に触れる。
「......痛い?」
ささやくような声で尋ねられて
私は首を横にふった。
「今はもう、痛くないよ。」
すると、彼はその手を
違う場所に移動させる。
「じゃあ、ここは?」
かな君が触れていたのは、
私の心臓があるところだった。
「ゆいのちゃん、心は痛くない?」
「ちょっと、痛いかも......。」
気付けばまた泣いていた。
久しぶりに人の暖かい愛に触れて、
私の涙腺はもはやストッパーの
効かないくらいで、全くもって
意味を成していなかった。
「痛いの、痛いの、とんでいけ。」
かな君が私の頭を撫でて唱える。
かな君が傍にいる。
ただそれだけのことなのに、
不思議と心が落ち着いた。
窓から見上げた空は澄んでいる。
あの日から私たちは、
お互いにとってかけがえのない
親友になった。
〈11ヶ月前の交錯〉
雲の向こうは、いつも青空。
劇の本番である学園祭まで
あと1週間に迫った。
私たちの練習もいよいよ
大詰めのところまで来ている。
あれから私は奏にいろいろと
手伝ってもらいながら家でも
練習を繰り返し、全てのセリフを
堂々と言えるようになった。
あんなに恥ずかしいと思っていた
ロミオへの愛の言葉も
ジュリエットになりきってみれば
すらすらと口に出すことが出来る。
奏はなんでもソツなくこなして
しまうタイプだからこの劇も
しっかりと王子になりきっていた。
優しい優しいロミオと、自分に
自信のなくて弱いジュリエット。
それが今の私たちが演じる
ことの出来る限界。
本当のジュリエットはもっと
勇敢な性格をしているんだけど、
自己肯定感が低い私にとって
そんな役を演じるのはなかなか
至難の技だった。
「はぁ......。」
思わずため息が漏れる。
今はキャピュレット家の
侍女たちが噂をするシーンで、
私は休憩中。
慣れない役を演じているせいか
身体中がどっと疲れていた。
いつでも、どこでも。
何をしていても私にはいつも
あの言葉が付きまとう。
『出来損ない』
実の母親に貼られた、いつまでも
残り続けるレッテル。
忘れようとすればするほど、
忘れることが出来ない。
何かに挑戦したいと思っても
この言葉が頭に刻み込まれている
せいであと1歩を踏み出すことが
出来なかった。
『アンタなんかいらねぇんだよ!
せっかく娘を育てたのに!なんで
お前はこんなに馬鹿なんだ。』
私のせいで、お母さんはあんなに
怒ってたんだ。
挑戦できないのはあの言葉が
刻み込まれているからというより
単に自分が弱いからかもしれない。
うつむいていると、上から
聞きなれた奏の声がふってきた。
「結乃、またなんか考え込んでる。
なんか大丈夫じゃないって感じの
顔してるけど。どしたの。」
奏は私の些細な心境の変化や気分の
上がり下がりにすぐに気がつく。
私が自分の気持ちを隠そうとしても
いつも奏には見破られてしまうんだ。
「大丈夫、なんでもない。」
絶対に見破られると分かっていても
やっぱり迷惑をかけるのが嫌で、
うつむいたまま小さく首を振った。
「あのさ、結乃。俺が結乃の恐怖とか
不安とかに気づかない訳ないだろ。
昔2人で約束したじゃんかよ。
1人で抱え込むのは禁止だって。」
お母さんに虐待されてたときに、
それを奏にも打ち明けなかった。
でも、奏と過ごす時間が長くなる程、
彼を信用したいという気持ちが
どんどん溢れて止まらなくて。
で、最後は奏に全てを話した。
あのときの奏は私が話の途中で
泣き出しても最後まで話を聞いて
くれて、最後に約束してくれた。
『ゆいのちゃんが悲しくなったら、
僕が笑わせてあげる。これからは
1人で抱え込むの禁止ね!』
にっこりと笑いかけてくれる
その顔に、私は何度救われたんだろう。
奏には、本当に助けられてばかりだ。
「奏、いつもありがとう。」
奏に向かって言うと、彼は
びっくりしたような表情になって
それから少し頬を赤らめた。
「どうしたんだよ、いきなり。」
「だって、奏にはいつも
助けられてばかりだから。
私も奏に恩返ししないとね...。」
貰ってばかりじゃダメだよね。
ちゃんとお返ししなきゃ。
私がそう言うと、奏は少し
考え込むような表情になり、
それから私の方を見て笑った。
「俺はもう既に結乃からたくさん
恩返しして貰ってるけど。
こっちこそいつもありがとな。
マジで助かってるよ。」
「そんなこと、ないよ。」
私こそ、奏に貰ったものは
数えきれないほどある。
家族の愛や、友情の素晴らしさも
教えてくれたのは奏だから。
感謝しても、しきれない。
「次、ラストシーンの最終
チェックです。出演メンバー
ロミオ・ジュリエット・
侍女1・2・家臣A・Dの人
は準備してください。」
学園祭まであと2日。
私たちの演劇もいよいよ
最後の大詰めに差し掛かって
来ているところだ。
「今日のラストシーンの練習は、
衣装を着て行ってください。」
演劇部の子の指示で、私は
ドキドキしながら箱に入った
衣装を取り出した。
この衣装は昨日の放課後に
完成したばかりみたいで、私も
見るのは今回が初めてだ。
そっと箱の蓋を開けると、中から
出てきたのは練習が始まって
すぐの頃に家庭科部の子が見せてくれた
下書きそのままの綺麗な
カクテルドレスが入っていた。
襟元や裾の刺繍など細かいところも
隅々まで作り込まれていて、
本当に異国のお姫様が着るような
とても豪華なドレスに見える。