「はい、オーケイです。
ミニブレークとって5分後に
シーン20から練習します。」
菜々花と同じく演劇部の凜が
指示をだした。
私はほっとして近くにあった
席にどさりと座る。
まだ少し、胸が苦しかった。
心的外傷後ストレス障害の敵は
不安と自己否定。
この2つが重なりあえば、例え
どんな状況に居ても私の身体は
パニックを起こしてしまうのだ。
ふいに誰かが隣の席に座った気配が
して横を向くと、私の好きな
イチゴオレが頬っぺたにあてられた。
「......ひゃっ。」
「イチゴオレでも飲んどけ。
結乃、大丈夫か?だから無理は
すんなっていつも言ってるだろ。」
隣に座っていたのは奏だった。
いつものように不機嫌なのかクール
なのか分からない表情をしながら
私にイチゴオレを手渡してくれる。
「ありがと、奏。お金、いくらなの。」
「別に払わなくていいから。
今回は俺のおごり。でも、今度
お前のクッキー食いたい。」
この言葉も奏の優しさだ。
最近、私がお菓子を作る時間が
なかったのを見越して言ってくれて
いるんだろう。
「分かった。チョコレートでいい?」
「バニラがいい。」
奏は昔からバニラ味の食べ物が
大好きだった。
私と奏が初めて出会ったときも、
1人で泣いている私に差し出して
くれたのはバニラクッキーだったし。
「バニラ食うと、お前と会った時の
こと思い出すんだよな。」
突然にそう言われて、驚く。
「奏、私と初めて会った時のこと
まだ覚えてるの?」
もう、5年以上前のことなのに。
「当たり前だろ。一時期は一緒に
住んでた奴との出会いくらいは
覚えてるよ。」
奏はスポーツドリンクを煽りながら
どこか遠くを見るような仕草をする。
私たちの出会いはとても特別だ...。
「俺たちが出会ったのは、
なんかの運命なのかもな。」
「奏がそういうこと言うなんて
珍しいね。でも、あのとき
奏に出会わなかったら私は今
この世界にはもう
いなかったかもしれない。」
私も、奏から貰ったイチゴオレを
1口飲んで、窓から見える
美しい青空を眺めた。
空に浮かぶ真っ白い雲は1秒の間に
何度もその形を変えて、のんびりと
空中を漂っている。
私はその光景を目に焼き付けて、
そっと目を瞑った。
隣では奏もきっとあのときのことを
考えて目を閉じているのだろう。
私は、6年前に初めて奏と
出会ったときを思い出す。
そういえばあのときも......
見上げた空は真っ青で
どこまでも澄んでいて、
とても綺麗でした。
〈6年前の残酷な軌跡〉
愛はお互いを見つめあうことではなく、
ともに同じ方向を見つめることである。
怖かった。
あの視線が、声が、
振り下ろされる手が。
「お母さん......?」
「なぁに、私の結乃。」
前はあんなに優しかったのに。
「あのね、結乃は、
お花屋さんになりたい!」
「結乃ならきっとなれるわ!」
大事にしてくれていたのに。
「ねぇ、お母さん...!」
「うるさい!黙りなさい!」
なんで変わっちゃったの。
私は、もう1度でいいから、
前のお母さんに会いたいよ...。
お父さんは出ていった。
「どうしてお父さんはいなく
なっちゃったの?どうして?」
小学3年生だった私が尋ねると、
お母さんは弱々しく笑った。
「離婚、したのよ。お父さんは
もう結乃のお父さんじゃないわ。」
そして、お母さんは家に帰って
くるのが遅くなって、お酒を飲む
ことが増えた。
「お母さん、最近お酒飲み過ぎ
じゃない?やめた方がいいよ。」
お母さんの酷い酒癖を、たった
1度だけ、注意したことがある。
「結乃に言われたくないわ。
貴女は私のおかげでこうして
小学校に通って綺麗な服を着て
ご飯を食べられているのよ?
口答えしないで。黙って言うこと
聞きなさい!」
パシッと鋭い音がして、左頬に
手をやるとぬるりとした液体が
手にまとわりついた。
それは、血だった。
真っ赤な鮮血が、私の頬を伝って
フローリングに染みを作る。
すぐには何が起こったのか把握
することが出来なかったけれど、
呆然とした表情でこちらを
見つめる母と自分の手についた
血で、段々と事実が分かってきた。
「お母さん......?」
今、私を叩いたの?
「なんか、言ってよ......!!」
「...はは......あははっ。」
あのとき、お母さんは突然
笑いだしたんだっけ。
そして、私の方をまっすぐに
見つめて言い放ったんだ。
「ふざけんな。出来損ない娘が
なに調子のってんだよ黙れ。」
違う。
違う違う違うっ。
こんな酔っぱらいは...。
「貴女は......貴女みたいな人は
私のお母さんじゃないっ!」
叫ぶと同時に、涙が零れた。
お母さんがまた手をあげる。
勢いよく振りかぶった手は
しっかりと私の右目を捉えた。
キィーン。
目がジンジンする。
視界が、半分閉ざされた。
私は涙でぼやけた視界の奥に
狂気に満ちた顔でこちらに
迫ってくるお母さんを見た。
「やめて。嫌嫌嫌ぁぁぁあっ!」
あの日からお母さんは私に対して
暴力をふるうようになった。
いわゆる虐待ってやつだ。
身体にはたくさん痣が増えて、
友達にも心配されたけれど
打ち明けることは出来なかった。
打ち明けたことがお母さんに
バレたらどうなるのか、それが
怖くて仕方なかったから。
きっと、いつか殺される。
いつしかそんな恐怖に怯えながら
毎日を過ごすようになった。
大事にしていた赤いランドセルは
背負ったままの状態で殴られたり
蹴られたりするせいであちこちが
へこんで、うす黒く変色していた。
ランドセルは、お母さんが
お父さんと離婚したときに必死で
働いて新しく買ってくれたもの。
私の大切な宝物なのに。
家に帰ってお母さんがまだ帰って
来ていないと分かるとほっとして
涙が零れる。
嫌だった。
お母さんが変わったことより、
自分がお母さんをどうすることも
出来ないってことが。
『出来損ない娘が。』
その言葉が耳にこびりついて
何故か忘れられなかった。
泣いても泣いても、涙が
止まることはなくて、いつも
お母さんに殴られたあとは
1人きりで泣いていた。
恐くて恐くて身体が震える。
もうどうしようもないんだ。
私なんてただの出来損ない
でしかないんだって。
お母さんを責めることが
出来なくて、自分を責めた。
そして、お母さんは時間
に関係なく暴れだすようになった。
早朝でも夜中でも、ひとたび
お酒が入れば私を殴り、蹴り
罵倒して、叫び声をあげる。
いつしか、私たちの住む
一軒家はお母さんの叫び声の
せいで「お化け屋敷」なんて
呼ばれるようになっていた。
近所の人に避けられて、
お母さんに罵倒されて。
自分の惨めさにただただ
泣きたくなったことは
何度もある。
でも、必死で耐えた。
ここで折れたら負ける。
そう思って、いろいろ
言われると分かっていても
学校に通った。