見上げる空は、ただ蒼く

病院を出た。
私はカバンから1枚の紙を取り出す。


『りんちゃんへ

いつもゆいのといっしょに
あそんでくれてありがとう。
りんちゃんとあそぶの
たのしいからだいすきだよ。
りんちゃんのこともだいすきだよ。
しょうがっこうにいっても
ちゅうがっこうにいっても、
ずっとずーっといっしょにいようね。
これからもよろしくね。

           ゆいのより』

幼稚園の年少組にいたとき、結乃が
覚えたての平仮名を使って
苦労しながら私に書いてくれた手紙。

結乃を嫌いになっても、この手紙は
私にとっての宝物だった。

『ずっとずーっといっしょだよ』

その言葉を信じてた。
本当はずっと友達で居たかった。

一緒に遊びに行ったり写真を
撮ったりして、青春を満喫したかった。

でも。

私と結乃はまるで正反対の存在だ。
磁石のN極とN極みたいに
いつでもお互いをしりぞけあう。

私たち2人が、仲良くなるなんて。

そんなストーリーはありえないよね。
嫌な考えを捨てたくて首を横に振る。
結乃には結乃のお母さんと同じ血が
流れているのが私には分かる。

結乃は繊細だ。
そして同時に残酷だ。

傷つきたくない、傷つけたくない。

結乃はあの事件のあとからいつも
自分よりも相手のことばかり考えて、
相手を傷つけないように振る舞っていた。

泣いている子が居たら、励まして。
いじめられている子が居たら、そばに
寄り添って、もう1人で抱え込まないで
って優しく諭した。

でも、そんな結乃にもどう対応すれば
良いのかよく分からなかった子が
いるのを私は知っている。

その子は、何年か前の私たちの
クラスメートで、少しだけ人と違うことを
考える夢想家だったというだけで
クラスでかなり酷い扱いを受けていた。

物を隠されたり、落書きされたり、
全く根拠のない陰口を言われたり。
彼女は深く傷ついた。

そして。

反撃しようと思ったらしい。
私はたまたま、結乃がその子を励まそう
として失敗しているのを見た。

「私といっしょに戦おうよ。」

そう言った結乃に対しての彼女の反応は
本当に冷たいものだった。

「偽善者が何言ってんの。馬鹿みたい。」

彼女はそれから数日後に転校した。
クラスメート1人1人に手紙を残して。
私たちの手紙に書かれていたのは
いじめへの恨みやつらさ。

『例え手を貸していなくても、私を
無視した時点でいじめなんです。貴女も
気持ちを改めて下さい。』

私の手紙にはそう書かれていた。
確かに、そうかもしれない。

あの頃の私はクラスメートのいじめを
見てみぬフリをして、
そして心のどこかで黙認していた。

だけど、結乃への手紙には。

『ありがとう。』

ただそれだけが書かれていた。

私は、今ではいじめのリーダーだ。
結乃の物を隠し、落書きをして、
陰口を言っている。

本当はいじめが悪いことなのだと
分かっているけれど、その事実よりも
結乃が許せないって気持ちが勝ってるから。

指に力が込もって手紙の端が
少しだけぐしゃりと潰れた。

これは私たちの思い出の象徴。
楽しかった過去の記憶の残像だ。

結乃なんか早く死んじゃえばいいのに。
そう思うほど自分が嫌いになる。

私には傷つけることへの不安がないから。
傷つけられても哀しいと思わないから。

貴女の気持ちが分からないの。

夕闇に染まる空を眺める。
美しい黄金色の光が私を包み込んだ。
ここが夢なのか現実なのかは分からない。
ただ、真っ暗闇の世界だ。

私は死んだのか、生きているのか。
今の私にとって、そんなちっぽけなことは
正直にいうとどうでもよかった。

片想い。

その言葉の意味を知りたい。
すると、ポンと軽い音がして、
上から辞書が落ちてきた。

そしてぽうっと辺りが明るくなる。
私はためらいもなく辞書をひく。

片想い、と調べてみれば、

『一方からだけ思い慕うこと。片恋。』
『一方的に恋い慕うこと。片恋。』

さらに片恋と引いてみれば、

『自分を思わない人を恋い慕うこと。』

と書いてあった。

小学校の頃は、わざわざ辞書を引くのが
面倒であまり好きじゃなかった。
家の辞書は埃を被っていて。
そんな私を変えたのは1冊の本。

三浦しをんさんが書いた
『舟を編む』という小説。

中1の時に読書感想文を書くために
読んだその本が、私の辞書への価値観を
ガラリと変えてしまった。

この物語は、辞書を作る話だ。
ひたむきに言葉と向き合う主人公や
その周りの人々を見て私は心を打たれた。

それから、辞書を好きになって。
家の辞書は埃を被らなくなった。
辞書をぱたんと閉じると、周りに
灯っていた謎の明かりも消えていく。

私は、自分の身体を見下ろした。
テレビや漫画の幽霊みたいに透けていない。
しかも、自分で自分に触れられる。

どうやらまだ死んでないみたいだ。

この暗闇の世界が、部屋なのか外なのか
もはや地球上ですらないのか、
私には全く想像さえもつかない。

すきま風のようなひんやりとした
風が吹いて私の体温を奪い去っていく。

私はその場にしゃがみこんだ。
寒い、辛い、苦しい。
ここにはもう居たくない。

早くなんとかしてここから出なきゃ。

だけど。

現実にも、戻りたくない。
今は、ゆっくり考える時間がほしい。
そっと目を閉じると、愛しい君の声が
脳内に再生された。

『ゆいのちゃん、心は痛くない?』

『俺は、結乃を傷つける奴を
絶対に許さない。』

君はいつでも優しくて。
私をいろんなことから守ってくれて。
友達になってくれて。
愛って感情を教えてくれて。

君からは本当にたくさんのことを
教えてもらったしたくさんの思い出も
一緒に作った。

私は奏が好きなんだよ。
他の誰かじゃダメなんだ。
「奏......!」

きっと思い出さない方がいいの。
君に逢いたくなるから。

私の声は果てしなく続きそうな暗闇に
虚しく響き渡り空間を引き裂く。

私は死にたかった。
どうせなら一息に死んでしまいたかった。

いや、もしかしたら生きていると
勘違いしているだけで本当は
もう死んでいるのかもしれない。

暗闇は私にとって過去のトラウマの1つ。
お母さんが私の目を塞いでカッターで
首を切ろうとしてきたことがあるから。

あの時は隣の家に住んでいた人が、
回覧板を渡しにきて異変に気付いてくれた
おかげでなんとか助かったけれど、
もしも気付かなかったらきっと私は
あの時にあっさりと死んでいたはずだ。

暗闇は怖い。

先へ進む道も後ろへ戻る道も全てを
飲み込んで隠してしまうから。

「誰か、助けて。」

ダメもとで助けを求めてみるけれど
やっぱりここには私しかいないみたい。

どうしよう。

考えているとぽんと地面から
可愛らしい赤の椅子が出てきた。
どこからこの椅子は出てきたんだろう。
それに、いったいどうやって?
私が椅子に触れようとすると、
椅子が形状を変化させ始めた。

ipadのようになった椅子に、スクリーンが
ぼんやりと映し出される。

スクリーンには、とあるニュース番組を
放送している映像が映っている。

今紹介しているニュースのサブタイトルは

『増える学生自殺の背景にあるもの』

と書いてあった。

ニュースキャスターが淡々とニュースを
読み上げていくのに耳を傾ける。

「_の盥ヶ峰駅で女子学生がホームから
線路に飛び込み、電車と接触しました。
警察は自殺の可能性が強いとして女子学生に
対してのいじめの有無や家庭環境などを
捜査していく方針です。なお女子学生は
救急搬送されて一命をとりとめましたが、
意識不明の重体で現在は近くの病院で
治療を受けているとのことです。」

やっぱり。
これは、私の自殺未遂についてのニュース。
私は死んでないんだ。
『いじめの有無や家庭環境などを
        捜査していく方針です』

この言葉にいったいどれだけの
真実が紛れ込んでいるんだろう。

警察はきっと形だけの調査をして私が
自殺したのはいじめが理由じゃないって
結論づけるに違いない。

学校側がいじめを認めるなんてことは
絶対にあり得ない。

学校の名に泥を塗ることになるから。
気づかぬうちに汚してしまうから。
『いじめはいじめる側だけでなく
いじめられる側にも何かしら問題がある』

大人はよくそう言う。
少し前まではそんなの嘘だって思ってた
けれど、もしかしたらあながち
間違っていないのかもしれないな。

一連のニュースが終わると同時に、
ipadは元の椅子の形に戻る。

その時、私はあることに気付いた。
暗闇の世界の遥か向こう側に
小さな小さな光の点があることに。

あそこから、出られる。
自然と足はそちらの方に向いて、
私は光に向かって走り出していた。

走りながら、手を伸ばす。

遠い光が、いつまで追いかけても
追い付けない奏の背中と重なった。

今はまだ辿り着けなかったとしても。
いつか君と肩を並べる。
そして、君を越えてみせる。

走って、走って、走る。

走り続ける不安や疲れなんかよりも
心に灯る希望の方がずっと大きかった。

必ず、あの光を。
この手で掴みとるから。
スマホを開けると葉音から
ありえない量の着歴がきていた。

確認すると、どれもほんの数秒前。

かけ直すかどうか悩んでいると、手元で
スマホが軽やかに着信を告げた。

prrrr.prrrr.prrrr...

「もしもし、葉音?どしたの。
すごい数の着歴で正直いうとかなり
びっくりしたんだけど。」

俺が電話にでると、葉音は
ほっとしたように安堵の息が聞こえた。

『良かった......。ねぇ、奏。
スマホのメッセージアプリに
連絡いれたんだけど、奏はそれ見た?』

尋ねられて、俺は答える。

「ごめん、見てない。今、スマホとか
触ってられるような状況じゃないんだ。
この電話もいつ切るか分かんねぇもん。」

スマホの画面越しに無言の時が過ぎる。
向こうは今、何時くらいなんだろ。
朝か、それとも夕方なのかな。

そんなどうでもいいことを考えていた。
すると、葉音が静かな声で言った。

『1度しか言わないからよく聞いて......
結乃が、自殺未遂をした。結乃を
救えるのは貴方だけなの。そっちから
帰ってきたらちゃんと結乃の傍に
行ってあげなよ。それじゃ。』

混乱する俺を残して電話が切られる。

結乃が......自殺未遂?
冗談はよしてくれ。
頼むから嘘だと言ってくれよ。

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