なのに。
私は大きな間違いを犯してしまった。
私にとってのポーラースターが
目の前でその輝きを失っていくのを
私は止められなかった。
行ってみよう、なんてそんなに
軽く口走ったりしなかったら。
あのとき先生なんか呼ばないで
その場でラジオを叩き壊していたなら。
結乃を無理やりあの場から
離れさせて近づかせなかったら。
思い返せば後悔ばかりが募る。
病室で静かに眠る結乃。
自発呼吸が難しい為に口元には
酸素マスクがあてがわれている。
規則的なリズムをもって鳴る機械音。
彼女は見ているだけでも痛々しいほど
全身が包帯だらけなのに、
それでいて安らかな表情で眠っている。
あのあと先生を呼んで戻ってみると
結乃の姿はもうそこになくて。
ホームから電車の来る瞬間に飛び込んで
救急搬送されたと聞いたときは心配で
心配でたまらなかった。
そして、すぐに病院まで行って
涙が枯れるくらいに泣きまくった。
『結乃が自殺未遂した。』
奏には結乃のことを聞いたときに
すぐにメッセージを送った。
だけど、そのメッセージに未だに
既読マークはつかない。
予定ではもう帰ってきているはずなのに
音信不通の奏のことも心配になる。
結乃には奏が必要なのに。
今、この場にいるべきなのは、
結乃に寄り添ってあげるべきなのは
私なんかじゃなくて奏のはずなのに。
結乃が眠るベッドの横の
丸椅子に座って彼女を眺めた。
なんて綺麗なんだろう。
透き通るような白い肌に目元を
縁取る長い睫毛。
ベッドの上の結乃は眠り姫みたいだ。
ごめんね、結乃。
心の中で呟いて彼女の手を取る。
腕には、たくさんの点滴が刺さっていて。
頭や足には分厚い包帯が巻かれている。
ホームから線路に飛び込んで自殺未遂。
そんなことをしてしまうくらいに
結乃は追い詰められてたんだね。
気付けなくてごめん。
奏みたいに寄り添えなくてごめんね。
「また、結乃と話せたらいいな...。」
病院を出て、私は真っ先に
スマホを取り出して奏に電話をかけた。
prrrr.prrrr.prrrr.
虚しく響く呼び出し音。
お願い、電話に出てよ。
しばらくして、機械音が応答する。
~おかけになった電話はただいま電波の
届かない状態にある可能性がございます~
スマホを耳元から離してため息をついた。
「やっぱ、無理かも。」
結乃を奏に会わせてあげたい。
そうすればきっと結乃も目を覚ますから。
その為には、私が頑張らなきゃ。
2人の笑顔は私が守るって決めたの。
「諦めちゃ、ダメだ。」
もう1度スマホを開いて
奏の番号をタップしてみる。
prrrr.prrrr.prrrr.prrrr.prrrr.
~おかけになった電話は......~
prrrr.prrrr.prrrr.prrrr.prrrr.
~ただいま回線が込み合っている
場合がございますので、
後ほど時間をおいておかけ直しください~
後ほどじゃ、ダメなんだよ。
今じゃないと。
prrrr.prrrr.prrrr.
何度目かの呼び出し音。
そして、ついに。
「もしもし、葉音?どしたの。
すごい数の着歴で正直いうとかなり
びっくりしたんだけど。」
電話が、つながった。
病室に入ると、結乃は無防備に
すやすやと寝息をたてていた。
自分から線路に飛び込むなんて、
ほんっとに馬鹿みたい。
あのとき、助かったくせに。
私のおかげで命拾いしたくせに。
その命を捨ててどうすんのよ。
結乃って本当に意味がわかんない。
こんな奴、大っ嫌いだ。
私は無表情のまま結乃の腕に
手をのばして突き刺さっている点滴を
躊躇なく引き抜く。
そこから、鮮血が流れた。
赤い赤い血がシーツに染み付く。
その色は、かつての交通事故の
記憶を嫌でも思い起こさせた。
『りーんーちゃんっ。』
あどけないくりくりの黒い瞳。
『いっしょに遊ぼう?』
可愛く両サイドで編み込んだ髪。
『りんちゃんは、わたしのいちばんの
おともだちなんだもんねー!』
「.........嘘つき。」
そんなこと、思ってなかった癖に。
結乃を庇って車に轢かれた私。
次に2人が会った時にはもう、結乃の
記憶の中に私の存在はなかった。
私は、結乃の失われた記憶。
忘れられたなんて信じたくなかった。
『......あなたはだれなの?』
『わたし、りんだよ。ゆいのちゃん、
おぼえてないの?ねぇ、なんで...っ。』
『やめて。こわいよ。』
私の方を見る結乃の瞳には、
静かな恐怖が宿っていたんだ。
結乃なんて。
あんな奴なんて、大嫌い。
私も奏のことが好きだったのに。
結乃と私が並んだときに選ばれるのは
たいていは結乃だった。
だから、苦しくなっていじめた。
日に日に募るストレスから逃れたくて、
結乃を徹底的にいじめ抜いた。
最初は強がっていた癖に弱っていく
結乃を見て、このまま
死んじゃえばいいのにって思って。
とにかく苦しめたかった。
結乃の記憶だけじゃなくて、私の記憶も
なくなってれば良かったのに。
『辛いなら我慢しないで。
自分1人で哀しみを溜め込まないで。』
中1のとき、酷くいじめられていた
クラスメートに対して、結乃が
その子を励ますように笑いながら
そう言っていたのを思い出す。
結乃にそんなことを言う資格なんてない。
自分が知らず知らずの内に人のことを
傷付けてるなんて分かってないでしょ?
記憶がないからって甘えないで。
結乃が私を忘れたままでいるとしても、
私は貴女のことを忘れないから。
絶対に許さない。
例え学校に戻ってきたとしても
心に一生消えないくらいの傷を作ってやる。
私の苦しみを味わってよ。
同じように苦しんで足掻いてよ。
私は貴女のせいで幸せを失くした。
だけど。
この失くしものが見つかる確率は、
限りなく0%に近いのだから。
病院を出た。
私はカバンから1枚の紙を取り出す。
『りんちゃんへ
いつもゆいのといっしょに
あそんでくれてありがとう。
りんちゃんとあそぶの
たのしいからだいすきだよ。
りんちゃんのこともだいすきだよ。
しょうがっこうにいっても
ちゅうがっこうにいっても、
ずっとずーっといっしょにいようね。
これからもよろしくね。
ゆいのより』
幼稚園の年少組にいたとき、結乃が
覚えたての平仮名を使って
苦労しながら私に書いてくれた手紙。
結乃を嫌いになっても、この手紙は
私にとっての宝物だった。
『ずっとずーっといっしょだよ』
その言葉を信じてた。
本当はずっと友達で居たかった。
一緒に遊びに行ったり写真を
撮ったりして、青春を満喫したかった。
でも。
私と結乃はまるで正反対の存在だ。
磁石のN極とN極みたいに
いつでもお互いをしりぞけあう。
私たち2人が、仲良くなるなんて。
そんなストーリーはありえないよね。
嫌な考えを捨てたくて首を横に振る。
結乃には結乃のお母さんと同じ血が
流れているのが私には分かる。
結乃は繊細だ。
そして同時に残酷だ。
傷つきたくない、傷つけたくない。
結乃はあの事件のあとからいつも
自分よりも相手のことばかり考えて、
相手を傷つけないように振る舞っていた。
泣いている子が居たら、励まして。
いじめられている子が居たら、そばに
寄り添って、もう1人で抱え込まないで
って優しく諭した。
でも、そんな結乃にもどう対応すれば
良いのかよく分からなかった子が
いるのを私は知っている。
その子は、何年か前の私たちの
クラスメートで、少しだけ人と違うことを
考える夢想家だったというだけで
クラスでかなり酷い扱いを受けていた。
物を隠されたり、落書きされたり、
全く根拠のない陰口を言われたり。
彼女は深く傷ついた。
そして。
反撃しようと思ったらしい。
私はたまたま、結乃がその子を励まそう
として失敗しているのを見た。
「私といっしょに戦おうよ。」
そう言った結乃に対しての彼女の反応は
本当に冷たいものだった。
「偽善者が何言ってんの。馬鹿みたい。」
彼女はそれから数日後に転校した。
クラスメート1人1人に手紙を残して。
私たちの手紙に書かれていたのは
いじめへの恨みやつらさ。
『例え手を貸していなくても、私を
無視した時点でいじめなんです。貴女も
気持ちを改めて下さい。』
私の手紙にはそう書かれていた。
確かに、そうかもしれない。
あの頃の私はクラスメートのいじめを
見てみぬフリをして、
そして心のどこかで黙認していた。
だけど、結乃への手紙には。
『ありがとう。』
ただそれだけが書かれていた。
私は、今ではいじめのリーダーだ。
結乃の物を隠し、落書きをして、
陰口を言っている。
本当はいじめが悪いことなのだと
分かっているけれど、その事実よりも
結乃が許せないって気持ちが勝ってるから。
指に力が込もって手紙の端が
少しだけぐしゃりと潰れた。
これは私たちの思い出の象徴。
楽しかった過去の記憶の残像だ。
結乃なんか早く死んじゃえばいいのに。
そう思うほど自分が嫌いになる。
私には傷つけることへの不安がないから。
傷つけられても哀しいと思わないから。
貴女の気持ちが分からないの。
夕闇に染まる空を眺める。
美しい黄金色の光が私を包み込んだ。
ここが夢なのか現実なのかは分からない。
ただ、真っ暗闇の世界だ。
私は死んだのか、生きているのか。
今の私にとって、そんなちっぽけなことは
正直にいうとどうでもよかった。
片想い。
その言葉の意味を知りたい。
すると、ポンと軽い音がして、
上から辞書が落ちてきた。
そしてぽうっと辺りが明るくなる。
私はためらいもなく辞書をひく。
片想い、と調べてみれば、
『一方からだけ思い慕うこと。片恋。』
『一方的に恋い慕うこと。片恋。』
さらに片恋と引いてみれば、
『自分を思わない人を恋い慕うこと。』
と書いてあった。
小学校の頃は、わざわざ辞書を引くのが
面倒であまり好きじゃなかった。
家の辞書は埃を被っていて。
そんな私を変えたのは1冊の本。
三浦しをんさんが書いた
『舟を編む』という小説。
中1の時に読書感想文を書くために
読んだその本が、私の辞書への価値観を
ガラリと変えてしまった。
この物語は、辞書を作る話だ。
ひたむきに言葉と向き合う主人公や
その周りの人々を見て私は心を打たれた。
それから、辞書を好きになって。
家の辞書は埃を被らなくなった。