見上げる空は、ただ蒼く

「ごめん、なさい......。」

その声があまりにも小さくて、
怯えるように震えていて。
私は葉音の背中をそっと擦った。

「大丈夫。葉音のせいじゃないよ。
私は葉音が悪いなんて少しも
思ってないから安心して。」

葉音は泣きながら強く首を
横に振って叫んだ。

「でも私っ。危うく大事な友達の
結乃を殺すところだったんだよ?
そんな私が許されるはずないよ...。」

葉音、そんなこと考えなくて良いよ。
葉音が私にしてくれたこと、私に
とって本当に嬉しかったから。

葉音は私の大切な友達だからね。

私は目を閉じて、葉音の頭を
なでながらそっと語りかける。

「葉音は私のヒーローだよ。
私が奏との関係を切って
何も出来ないくらい落ち込んでたとき、
一生懸命に励ましてくれたことは
忘れないから。ありがとう。」

奏も近づいて来て、葉音の頭をなでる
私の手にそっと自分の手を重ねた。

「俺からも言っとく。結乃のこと
しっかり見ててくれて本当に
ありがとうな、葉音。」

「2人とも優しすぎるよ...。」

葉音は、笑った。
さっきまでずっと泣いていたから
目も腫れているし可愛いとは
言えないのかもしれないけれど。





その笑顔は、他のどんな表情よりも
本当に綺麗な笑顔だと思った。
葉音は立ち上がって、凜の方に
キツい視線を投げ掛けた。

「凜、ごめん。やっぱり私は結乃の
友達でいるから。凜の味方に
なることは出来ないよ。」

凜は笑っていた。

「私は別にアンタみたいな馬鹿真面目の
委員長なんて友達にいらないから。
いつの日か結乃と同じ目に遭うよ。」

少しつり上がり気味の挑戦的な瞳。
その瞳に宿っているのはどこまでも
深い真っ黒な闇だった。

「私はもう間違わない。これからは
結乃や奏を疑ったり傷つけたり
絶対にしないってここに誓うよ。」

「したいならそうすれば~?」

凜はフラりと教室を出ていった。




その日を境にして...








凜はまるで影をひそめるかのように
ぱたりと学校に来なくなった。









〈2ヶ月前に君に伝えたい〉

人間は、その想像力によって支配される。








凜が学校に来なくなって
ちょうど2ヶ月が経った頃。

私は奏と2人で、轢き逃げ事件の
加害者として服役している私の
お母さんの元を訪ねた。

お母さんが逮捕されてから、私は
1度もお母さんを訪ねていなかった。
正直に言うと、怖かったから。

あの頃の虐待の記憶が、
もう2度と忘れられないほどに
心にも身体にも
深く刻み込まれていたから。

でも、この数ヶ月の間に本当に
いろいろなことがあって。
やっぱりもう1度お母さんと
しっかり向き合わないと
いけないなって強く感じたの。

それで、断られると思いながらも
1週間前に奏に頼んでみた。

お母さんに会いに行くから
奏についてきてほしいんだ、って。

奏は私の言葉にちょっと笑って、

『結乃、がんばれ。』

そう励ましてくれた。

私が辛いときや哀しいとき、
それを隠していてもいつだって私が
言ってほしい言葉をかけてくれたのは
家族や先生じゃなくて奏だった。

今までの人生で、奏以外の人に
褒められたという記憶がほとんどない。

奏は私の良いところを見てくれて、
それをちゃんと評価してくれる。
奏のそんな律儀なところが好きだった。
面会場所のドアの前に立つ。
早くなっていく鼓動の音。

そして右手には、
私を励ましてくれる幼馴染の手。
彼は私と繋いだ手の方を
突然、強弱をつけながら握りはじめた。

トン・ツー・ツー・トン・トン...

これって......モールス信号だ。

私は目をつぶって懸命に
信号を読み取っていく。

『f』『i』『g』『h』『t』

___ファイト。

そっと隣を見あげれば、こちらを
見てにやりと笑っている君がいて。
ただそれだけで勇気が出る。

「いって、くるね。」

私は深呼吸をして、ドアを開けた。




「お母さん。」

アクリル板を挟んだ向こうに、
お母さんが座っている。
虐待の記憶が嫌でも
頭のなかによみがえってきて
後退りしそうになっちゃう。

だけど。

今日こそは、ちゃんと向き合おう。
こうやってお互いがちゃんと
向かい合うのは何年振りだろうね。

お母さん、痩せたな。

久しぶりに会ったお母さんは、
元気がなさそうに見えた。
何て言おう。
喉がカラカラになる。
私は、お母さんの方をじっと
見つめながら声をあげた。

「おかあ、さん。あのさ...」

__元気にしてた?

そう言おうと思ったとき、
アクリル板の向こうのお母さんの
表情に変化があった。

うつむいていた顔がだんだん
上向きになってくる。

お母さんは、私を睨んでいた。



「お母さんなんて言う資格、
アンタにはないわよ!出てけ!!
出来損ないの癖にっ。
アンタのせいで私がどれだけ
苦労したかアンタには絶対に
分かんないの!!せっかく
女の子にしたのにこれじゃ全くの
台無しじゃないっ!」

「赤坂。やめなさい。」

警官の制止する声。


一瞬、何を言われたか
分からなかった。
そして、やっとのことで
状況を理解したときにはもう。


お母さんは警官に連れられて
面会室から出ていくところだった。
そのやつれた小さな背中に私は
必死で声をかける。


「ごめん、なさい。」
お母さんはその言葉をスルーして
面会室から出ていった。

私の気持ちが届いたか
どうかなんて分からない。

お母さんの声が私の中でぐるぐると
リピートされ続けていて。
面会室を出たところで待っていて
くれた奏の方を見向きもせずに
その場にへなへなと座り込んだ。

「嫌。嫌ぁぁぁあっ!やめて...。
私が悪いの!ごめんなさいっ。」

パニックになって取り乱す私。

「結乃っ?大丈夫、大丈夫だよ。
何があったとしても結乃には俺が
ついてるから。えぇっと、とりあえず
PTSDの薬飲んどこ、ほら。」

奏はそんな私を近くの公園のベンチまで
連れてくると包み込むように抱き締め、
背中を擦ってくれた。

彼は私の服のポケットから半透明の
タブレットケースを取り出して
中に入った錠剤を取り出す。

「はい、リボトリールとレキソタン。」

受け取ったそれを水と一緒に
飲み込むと、次第に呼吸が
落ち着いてきたようだった。

リボトリールとレキソタンは
簡単に説明すると精神安定剤だ。

私はPTSD持ちだから
いつもこの薬を持ち歩いている。

強い副作用があるけれど、今の私は
この薬がないと生きていけないんだ。

「ご、めん。奏。ありが、と。
も、う、だいじょうぶ、だか、ら。」

隣にいる幼馴染の心配そうな
表情をなんとかしたくて
その場しのぎの嘘を吐く。

「無理して嘘つくな。今さ、結乃は
苦しいんでしょ?だったら俺にも
その苦しみ分けてくれよ。俺だって
幼馴染として結乃の苦しみを
分かち合う覚悟くらいはあるからさ。」

真剣な言葉と眼差し。
私が顔を上げると、彼は満足そうに
ふっと笑みを見せた。
その顔を見て、何故か安心して。
気づけば私は泣いていた。
「......私が出来損ないだから
お母さんが苦しんでるんだ。
私の...せい、でっ。」

強い憎悪を含んでいたお母さんの目。
お母さんは私が嫌いなんだ。
私の存在がお母さんの重荷になってる。

身体中の震えが止まらない。

すると、後ろから奏に
ふわりと抱き締められた。

「何があっても結乃のことは
俺が守るよ。それが俺にとっての
唯一の罪滅ぼしだから......。」

耳元で紡がれた奏の囁くような呟き。

「罪、滅ぼし?」

どういう意味だろう。
私が不思議に思ってオウム返しすると
奏はハッとして口をつぐんだ。

「ごめん、なんでもないよ。」

奏はそう言って笑みを浮かべている
けれど、僅かに視線が泳いでいる。
こんなことが、確か前にもあった。
奏は私に何か隠していることがある。

「奏は苦しく、ないの?」

私がそう言うと、奏は驚いたように
目を見開いて私の顔を見た。

「どういうこと?」

「奏は、1人で抱え込んで、
苦しいと思って、ないの?私は、
奏が1人で抱え込んでたら苦しいよ。
奏は私の大事な幼馴染だから...。」

私の言葉を聞いて、奏は何故か
物凄く哀しそうな表情をして。

「ごめんな、結乃。俺なんかの為に
心配してくれてんだよな...でも、
これだけは言えないんだ。
本当にごめん、許して。」

「俺なんか、って言わないで。
奏は私の大切な存在、なんだよ。」

「結乃......ありがと.........っ。」
奏は俯いて声を震わせた。
お互いの気持ちが落ち着いたところで
私たちはどちらからともなく
手を繋いで家路をたどった。

私たちの住む一戸建ての家が見えて
きたそのとき、奏が突然立ち止まった。

「嘘、だろ......?」

その顔は真っ青で、私は咄嗟に奏を
自分の背中に庇うように立った。

奏が見ていた方向に目をやると、
うちの家の玄関で紗綾さんと
中年の男性が話している。

誰だろう、あの男の人。

紗綾さんは困った様子で首を横に
振っているけれど、男性はなかなか
引かないみたいだ。

私は奏の手をしっかりと握ったまま
玄関に近づいていった。

「紗綾さん、ただいまです。」

「おかえり、結乃ちゃん。あのね...」

紗綾さんが何かを話そうとしたとき
奏が男性に向かって大声をあげた。

「今さら何しに来てんだよ、父さん。」

え......奏のお父さん?

私は驚きを隠せなかった。
奏のお母さんは病気で亡くなったと
聞いていたけれど、お父さんが
どうしているのかは知らなかったから。

私は勝手に自分の家と同じように
離婚しているんだとばかり考えていた。
奏のお父さんは奏を見ると、
かけていたサングラスを外して
にやりと笑った。

「ちょうどお前を探してたんだ。」

「帰れよ!」

青い顔をして叫んだ奏を完全に無視して
奏のお父さんは驚きの1言を言った。

「奏、フランス行くぞ。」

一瞬、その場が時が
止まったように静まり返った。