担任の先生は私の視線に軽く
首を傾げて、それから
私の机の惨状に気づく。
「赤坂さん、さっきまで
何をやっていたの?早く机の上を
綺麗に片付けなさい。」
え......?
私は思わず耳を疑った。
先生、まさか本気で言ってる
わけじゃないよね。
中学生にもなって自分で机に
落書きなんてするはずないから。
信じたく、なかった。
すがるような気持ちでもう1度
先生を見たけれど、先生は
冷ややかな視線をこちらに
送っただけで何も言わなかった。
「先生、赤坂は自分でやったんじゃなくて
誰かにやられたんだと思いますけど。」
「私もそう思います。」
奏が声をあげて、
葉音がそれに力強く反応した。
奏、葉音......。
担任の先生は2人の言葉を受けて
鬱陶しそうに眉をひそめた。
「2人とも何を言っているん
ですか。そんなことを言っている
時間があるのなら赤坂さんの
片付けでも手伝ってあげなさい。
赤坂さんは後で職員室に来ること。
いいわね。この話は終わりよ。」
先生はカツカツとハイヒールの
音を鳴らしながら颯爽と
教室を出ていった。
残ったのは、どんよりとした
教室の空気と先生のツンとした
香水の香りだけ。
「俺がついていこっか?」
心配してそう提案してくれた奏に
丁寧にお礼を言ってから、
呼び出しに応じて1人で職員室に行くと
先生はこちらを睨んで言い放った。
「赤坂さん、いじめられないでね。
いじめってすごく面倒なのよ。」
先生の無神経な言葉に私は
またしても衝撃を受ける。
面倒......?
イジメで命を絶つほど苦しむ人が
いるのに、それを「面倒」の1言で
片付けてしまう先生の神経が
全くもって理解できない。
「先生はどうしてイジメを面倒
だと思うんですか。生徒にとっては
深刻な問題だと思いますが。」
静かに問うと、返ってきたのは
ため息混じりの弁解。
「イジメは加害者だけじゃなくて
先生も責任が問われるのよ。
その意味、分かる?面倒でしょ。」
責任が問われるから面倒だっていう人に
学校の教師という
仕事をする資格はあるんだろうか。
先生と別れて教室に戻る。
先生は味方じゃない。
ハッキリとその事実を
突き付けられて胸が痛かった。
教室に戻って席につく。
奏はどこかに行ったみたいで
席はからっぽだった。
本を開こうとしたとき、いきなり
後ろからバシャッっと音がして
全身がヒヤリとした。
「ごめんねぇ、結乃。間違えて
バケツの水かけちゃった。」
滴り落ちた水が教室の床に染み込んでいく。
全身の体温が奪われていくなかで
私は後悔する。
復学なんてしなければ。
こんな思いをせずにすんだのに。
奏を苦しめることもなかった。
いっそのこと私がこの世に
生まれてこなければよかった。
2人が初めて出会った時には
蒼く澄み渡っていた空が
いつのまにか
その蒼さを失っていた。
〈7ヶ月前の涙〉
美しい景色を探すな。
景色の中に美しいものを見つけるんだ。
復学してから2ヶ月が過ぎた。
凜の私へのイジメはとどまる
ところを知らず、むしろ
どんどん過激化しているように感じる。
あるときはトイレの床に
顔を押し付けられて踏まれて。
またあるときは家庭科室の
アイロンを腕に当てられて。
殴られ、蹴られ、罵倒されて。
身も心もぼろぼろだった。
クラスメートは見てみぬフリ。
『結乃、大丈夫か?』
『ごめん、間に合わなくて。』
『今日は遊びに行こう。』
私を助けて励ましてくれるのは
気付けば奏だけになっていた。
「ごめんね......奏......。」
PTSDも悪化して休日は
ほとんど寝たきり状態の私。
そんなときでも、奏はいつも通り
私に優しくしてくれている。
私が震える声で謝ると奏は
最近はいつも同じことを言う。
「結乃を助けることは、
俺にとって贖罪なんだ。だから
結乃は謝んなくていいよ。」
贖罪。
罪を償うこと。
[俺にとって贖罪なんだ。]
どういう意味なんだろう。
私はこのことが原因で起きる
数ヵ月後の悲劇も知らずに
のほほんと考えていた。
今日は土曜日。
安定のほぼ帰宅部扱いで
活動が火曜日の放課後しかない
美術部に所属している私は
学校が休みの日だ。
奏はバスケットボール部だから、
きっと今ごろは学校に行っている。
確か、今日は午後から他校との
練習試合があるって言ってたっけ。
本当は見に行きたかったけど、
体調が芳しくなくてベッドから
動くことが出来なかった。
腕をめいっぱい伸ばして机の上の
スマホを取り、メッセージを送信する。
『今日は他校との練習試合
頑張ってね。家からになるけど
ちゃんと応援してるから。』
送信したメッセージは驚いたことに
即既読がついて、私は半ば諦めの
ようなため息をついた。
奏ってば、部活なのになんでスマホ
触る余裕があるの。
そうやって怒りたくなる。でも、
そんな気持ちはいつもかき消されて
しまうんだよね、何故か。
『結乃が応援してくれてるなら
絶対に勝てる。頑張るよ。』
送られてきた返信を見て思わず
紅くなってしまった。
こういうことさらっと言っちゃう
ところがカッコいいんだ。
奏、昔からモテるもんね。
奏と過ごしたいろいろな思い出を
懐かしく思い出しながら私は再び
ベッドの上で目を閉じた。
さぁ、もう一眠りしよう。
ぴーんぽーん。
玄関チャイムが鳴るかすかな
音で、私は目を覚ました。
時計を見ると、時刻は1時。
30分だけ眠る予定だったのに
いつのまにか3時間も過ぎている。
とはいえ、奏は試合だし紗綾さんは
仕事、透さんは海外だから私が
玄関に行かなきゃ。
慌ててパジャマからTシャツに
着替えて、階段を降りていく。
「どちらさまですか。」
モニター越しに声をかけながら
画面を見ると、映っているのは
宅配スタッフの人のようだった。
『お荷物を届けに参りましたので
サインと受け取りお願いします。』
そう言われて、私はボールペンと
シャチハタを手に玄関をでた。
宅配スタッフの顔は、帽子が影に
なっていてよく見えない。
サインをしようと
前かがみになった、そのとき。
「...............っ!」
いきなり今まで感じたことのない
ような痛みが後頭部を走り抜けた。
思わず倒れ込んで身悶える私の横に
音をたてて落ちた金属バット。
そんな私を見ながら宅配スタッフは
すっと帽子を上にあげた。
「.........のっちゃん。」
そこにいたのは、凜の幼なじみで
陸上部のエース男子の望だった。
「お前、どんまい。」
走り去る影を追うことも出来ない。
望、すごい背が高くなってる。
のっちゃんとは小学校のときに
知り合った仲だ。
のっちゃんは小6のとき私や
奏と同じ、1組だった。
中学校にあがるとき、私たちは
小学校と同じ系列の中学校を
選んだけれど、望だけは1人で
偏差値の高い中学を受験して
見事に合格していた気がする。
小学校の頃もよく成績優秀な奏と
2人で点数を張り合っていた。
望と会ったのは、3年ぶりくらいだろうか。
さすがにそこまでの年月が流れたら
見た目も変わるよね。
でも、どうしてのっちゃんは私を
金属バットで殴ったんだろう。
私は朦朧とする意識の中で、
必死に答えを探し求める。
望自身が私に何か恨みでもある?
凜の差し金の可能性だってある。
相手をなんの根拠もないまま
責め立てるのはよくない。
「.........いた....い......。」
後頭部に手をやると、ぬるりと
した液状のものが手にやたら
まとわりつく。言わなくてもわかる。
真っ赤なそれは血、だ。
きっとルミノール反応だってでるだろう。
近所のおばさんが慌てて
こちらに走りよってきた。
『お化け屋敷』に住んでいた頃は
全くなかった近所の家との交流も
こっちに住むようになってからは
積極的に取り組んだ。
「結乃ちゃん、大丈夫?!誰か!
救急車よんでーーっ!」
おばさんの声で、庭で草むしりを
していた若い男性がスマホを
取り出して救急車を呼んでくれた。
私はおばさんに向かって謝る。
「すいません金森さん...。」
すると、彼女は親指を立てて
にっこりと笑ってくれた。
「子供なんて、大人を頼って迷惑
かけまくるのが本業なのよ。
結乃ちゃんは自立しすぎ。もっと
周りに甘えていいわ。奏とは幼馴染
なんでしょう。あの子ならきっと
甘やかしてくれるわよ。」
金森さんの話をぼんやりとした
意識の中で聞いていると、
何故だか泣きそうになった。
遠くから救急車のシンボルである
かすかなサイレンの音がする。
それを聞くとほっとして、
風前の灯火だった私の意識は
あっというまにとんだ。