生きる意味ってなんなんだろう、とか

どうして、いずれ死ぬのにこんなに頑張らなくちゃいけないんだろうとか

ずっと、考えてたんだ


どんなひとだってそんな悩みをどこかに抱えて
死にたいって思ったことは一度はあるって思ってたんだ

だからいつも死にたい
って思ってる自分はおかしなことじゃないし、むしろそればかりに支配される自分は弱いんだって、そう思ってたんだ



でも、彼女はそんな僕にいってくれた


死にたいんじゃなくて、
死にたくなっちゃうくらい辛いことがあったんだよね


でも、だから、本当はーー
ここにいたいよね
生きていたいんだよね


僕は、ただ、涙を流した……


澄み渡る群青の空。
風に乗って運ばれてくる草木の香り。
時節聞こえてくる動物たちの鳴き声。
体全体に感じる暖かな日差し。

「ん〜、いい気持ち〜⋯⋯。今日はいいお昼寝日和だね〜」

そよそよなびく草原にその身をあずけ手足を思い切り伸ばすとひとつ幸せなため息をつく。
眠り特有のまどろみの中へと落ちていく感覚。
その感覚に身を任せて気持ちよくお昼寝し始めようとした、その時。

「おっ!やっぱ、ベジはここにいたか。」

そんな声がしてきてゆっくりと瞳をひらく。

「ソウくんだ……」

「おお、そうだぞ。ってなにダジャレ言わせてんだよ。」

なんていってケタケタ楽しそうに笑うのは従兄弟のソウくん。
お昼寝が趣味で普段からトロくて何も出来ない私とは打って変わった青年で、趣味は読書でいつも明るくて元気なしっかり者の、とても同い年とは思えない人。

ソウくんの色素の薄い薄茶の柔らかな髪の毛が穏やかな風をうけてそよそよと揺れる。
そんな様子をみていると先程よりもっと心が穏やかで優しいものになっていく。
そして、より、眠りの世界への扉が強く私をひきつけてくる。

「今日はソウくんも非番なんだね」

「おう!だからここで読書でもするかと思ってさ」

そういうとゴロンと私の横に寝転がるソウくん。
ライトグリーン色のいたずらっぽい目とふいに視線がかちあって柔らかな笑みが溢れ出す。

「ソウくんはいつもそれだね。すごいなあ」

「お前だって毎日昼寝しててすごいじゃん」

全然嫌味のないその言い方はソウくんだからこそだと思う。

……そっか。今日はソウくんも非番なのか。こうして二人で寝転がってゆっくり過ごすの久しぶりかも。

ここは人里からずーっと離れた場所にある広大な農業地域で、ここら一帯全てをうちが所有し農作物を育てるのにつかっている。
家族のみで運営していて、当番日には農作業を、非番日は自由に過ごすことが出来る。

昔、働いたりしてなかった子供の頃はよくソウくんとこの草原で遊んだりしたんだけど、最近は互いの非番が重なることも珍しくなって、こうしてゆっくりと会うことも少なくなっていた。

大きくなってからは私が昼寝してその横でソウくんが本を読む、というのがいつものスタイルと化してきた。
現に今も、私が眠りにつこうとするその横でソウくんが真剣な眼差しで本に書かれた呪文みたいな文章とにらめっこしている。

ほんと、穏やかだなあ。



「…………ベジーー、ちょっと来てーー」

「ベジ、呼ばれてるぞ」

遠くから聞こえてくる母の声に意識がまどろみながらも言葉を紡ぐ。

「んー、待って⋯⋯もう少し⋯⋯お昼⋯⋯寝⋯⋯」

ああ。お昼寝ってなんでこんなに気持ちいいんだろう。こうやって眠気に身を任せてまどろみにいる時なんて特に⋯⋯。

「⋯⋯⋯⋯ベジ!ベジ!!」

「⋯⋯んん⋯⋯。母さん?」

真上からふってきた怒声に目をあけると目の前にしかめっ面の母さんがいた。

「まったく、あんたって子は。呼んでたのよ。」

「えへへ。気づかなかったや⋯⋯」

「そんなこと言って、また眠気には逆らえなかっただけでしょ」

「バレたか」

「バレたか、じゃありません。はあ、これだからこの子は⋯⋯」

大げさに呆れた仕草をすると私の腕を引っ張り無理矢理立ち上がらせる母さん。

「あんたに頼みたいことがあるのよ。ちょっと来て」

「でも、まだ太陽が真上にもきてない時間だよ?今日の家畜の当番はダスおじさんと父さんとじーさまだし畑の当番はヒルダおばさんと母さんとばーさまだし私はお昼寝を」

「いいから来なさい」

「そんな〜〜」

せっかくの非番で、せっかくの晴天で、存分にお昼寝できるって思ってたのに⋯⋯。

「おばさん、ベジじゃなくて俺じゃダメですか?」

そういうのは本に栞を挟み終えて母さんをまっすぐに見上げるソウくんだった。

「ソウくんはほんとに優しいわね。でも今回のことはベジに頼みたいから、大丈夫よ」

母さんが私に言うよりもずっと優しくそういう。

「うぅ······。面倒だけど、行ってくるね。ありがと、ソウくん」

そういうと

「助けになれなくてごめんな。じゃあ、俺、暫くここで読書してから帰るわ」
といって少し申し訳なさそうないつもの笑顔をみせるソウくん。
そんなソウくんを見かねて母さんは一つ深いため息をついた。

「これから頼むことやってくれたら、スタルイトのパイ作ってあげるから」

「ほんとにっ?!やった!」

先程まで落胆してたのなんて嘘みたいにはしゃぐ私。
スタルイトっていうのはうちで栽培しているものの一つで、鮮やかなオレンジ色をした、楕円形の野菜だ。
野菜という分類にははいるが甘みが強く果物と同類といっても過言ではない。
そんなスタルイトを甘辛く煮てパイ生地に包んだ母さん特製のスタルイトパイはいつ食べても絶品で私なんかはすぐに根負けする。

はしゃぐ私を見て安心した様子のソウくんは「じゃっ」と片手をあげると読書へと戻っていった。

母さんと並んで幾分程歩くと一件の家が見えてくる。どこまでも広がる草原地帯にポツンとただずむここが我が家。

私がさっきまで寝転んでいたのは牧草地帯で、そこ以外の土地には畑がめいっぱい広がってる。
つまりここら辺一帯をうちが所有しているわけで⋯⋯。
うちにご近所さんはいない。
私が生まれてこの方会ったことがあるのは親戚の人ばかりで、それ以外の他人《ひと》に会ったことは一切ない。
会ってみたい気もするけど、ここでのんびり暮らせてればそれでいいから特段強く外の世界に出ることを望んではいない。
家畜の世話も畑仕事も大変ではあるけど楽しいし、ここら辺を取り巻くのどかな空気が大好きだし、家族が大切だから。

家に入るとまっすぐに居間に向かう母さん。
やってもらいたいことって野菜の仕分けかな。それとも晩御飯の支度かな。どちらにしろはやく終わらせてスタルイトのパイを食べたいな。そしたらまたお昼寝しよう。

「はい、これ」

居間につくとテーブルの上に置かれていた大きな袋を手渡される。

「なあに、これ」

「届けものよ」

「届けもの?⋯⋯。でも、お届けものはいつも父さんが行ってるよね」

昔野菜を配達しにいく父さんについていこうとしたら頑なに断られたっけ。
別に行けないなら行けないでいいや。そう思ってさして気にしてはいなかったんだけど、今になってどうしたんだろ。

「そうなんだけどね、今回は違うのよ。ほら、あんたってここだけしか世界を見たことないでしょう」

「うん」

「だから、よ。都会の人を見て色んなことを学んできなさい」

「はーい。じゃあ、行ってくるね」

よくわからないからとりあえず何も考えずに返事をしとく。
要は都会に行って野菜を届ければいいんだよね!
都会ってどんなだろ。いい昼寝場所はあるかな。美味しいものも沢山食べたいなあ。

「ベジ」

外に出ると家畜の世話をしにいってるはずの父さんがいた。
父さんは巨体で筋肉質な体の、農業とは不釣り合いの逞しい男の人だ。

「行くんだな」

「うん、これ届けに」

そういって袋を掲げて笑うと父さんは筋肉質な腕で思い切り私を抱きしめた。

「ど、どうしたの、父さん」

右も左も、しまいには前まで父さんの強靭な筋肉にはさまれて上手く息ができない。

「ベジ、男は危険だ!ケダモノだ!少しでも近寄ってきたらすぐに逃げるんだぞ」

「え、でも父さんやおじさん達もソウくんだって皆男の人だよね?」

「家族は別なんだっ!」

なんだか悲痛な響きがこもったその言葉に私はしぶしぶ頷く。

「わかったよ、父さん」

「うっ」

私の肩に顔を埋め泣き出した父さんにどう対応すれば良いのかわからずにいると後ろから地の底から響くような声が聞こえてくる。

「タブ、なんでそんな所にいるのかしら?そんなところにいるってことは、今日のノルマは達成したってことよねえ?⋯⋯」

その言葉に強靭な筋肉に包まれた肩をビクッと震わせるとソロリと私から離れ牧場の方へすごい速さで駆け出す父さん。

そんな父さんの背中を見つめながら外の男の人ってそんなに怖いんだななんて考える。

ケダモノってことは人の形をしていないのかも。狐やタヌキが化けてるのかな。でもなんにしろ、あんなに強い父さんの弱点が母さんなんだもん。男の人に会って困ったことがあっても弱点をさがしてどうにかしよう。

「ベジ、これで都市ルミナスへ行ってちょうだい」

そういう母さんの手のひらには複雑な模様が描かれた四角いハンカチがある。しかしそれは母さんがなにやらぶつぶつと呟くと人一人が上に乗れるほどの大きさになった。

「この子をルミナス69番地波の目横丁5の目月の見える丘最奥の白い館の手前までおくってあげて」

これは母さんがいつも愛用している魔法のじゅうたん。普段はハンカチくらいの大きさで戸棚にしまわれてるけど配達の時だけこうしてだされて使われてる。

母さんの言葉に最初じゅんたんは特にこれといった反応は示さなかったけど、やがてスッと私が乗れる位置に来てくれる。

「じゃあ、いってらっしゃい。スタルイトのパイ作って待ってるわ」

初めて乗ったじゅんたんは思っていたより不安定で届けものだけは落とさないようにしようと膝の間にはさんで抱え込む。

「ベジ、愛してるわ」

そういうと私のオレンジ色の髪の毛に触れて優しく微笑む母さん。

「うん、私もだよ」

少しずつじゅんたんが上昇していく。

「初めて外に出るわけだし緊張すると思うけど大丈夫よ。あなたはあなたらしく、ね」

「はーい。じゃーね、母さん」

気づくと母さんはずっと下の方になって私から見ると豆粒のように小さくなった。

母さんのいるところから少し目線をずらせば父さんやおじさん、おばさん達がみんな手を振っていた。
ちょっと届け物しにいくだけなのに大袈裟だなあ。

私がついさっきまで昼寝していた場所には読書を満喫しているソウくんの姿。

野菜畑の野菜達は上から見るとその整然と植えられた様がとても綺麗だ。

そんないつもの世界も案外すぐに見えなくなってしまう。

じゅんたんから下を覗く行為にも段々疲れてきて、目をつむって体全体に感じる風だけに意識を集中させることにした。
後はじゅんたんが目的地に連れてってくれる。だからしばらく寝転がってお昼寝しよう。
寝返りさえうたなければ落ちることもなさそうだし。
なんて呑気なことを考えて、私は眠りについたーー。



普段絶対に聞くことがないような騒音やひどい罵倒の声、それに加え活気あふれる人々の声が聞こえてきて、これって夢なのかなあ、なんて思いながら目を開けてみる。

するとそこには自分が今までに見たことのない想像したこともない、それこそ、夢にまで見たことのない景色が広がっていた。
いつもなら二度寝するところだが、思わず体を起こしてあたりを見渡す。

前方にも後方にも左手にも右手にも大きな建物が隙間も作らずにズラーッと立ち並んでいる。

どれも個性的な形なうえカラフルでとても目を引く。
なかには屋根がなく上から中が丸見えな建物もある。
様子を見ているとじゅうたんに乗った人が、そのまま降下して店に入っていっていた。
確かに、一回一回じゅうたんから降りるより、ああしてじゅうたんに乗ったまま入店したほうがずっと楽だろうなあ。
けど雨の日はどうするんだろう。
なんて、建物ばかりに気を取られていたが家の近くと違ってあちこちに魔法のじゅうたんに乗った人や、ほうきにまたがった人、しまいにはペガサスにまたがっている人までいた。
みんな好き勝手に飛び回っていてそこかしこで罵倒が飛び交っている。
私が乗っている魔法のじゅうたんは一人乗りだけれど、中には十人以上乗れるようなとても大きなじゅうたんがあった。

眼下を見てみると豆粒のように見える人が数え切れないほどいた。中には人ではない姿のものもいる。
すごい⋯⋯!都会ってこんななんだ。
届け物をギュッと抱きしめて高鳴る胸をおさえつける。

母さん愛用の魔法のじゅうたんは上空があまりにも混雑して騒々しいことに疲れたのか少しずつ下降し始めた。
下降すればするほど避けなければならない建物が増えてあっちへ曲がったりこっちへ曲がったりして届け物どころか私までじゅうたんから落ちそうになる。
しかしそんなことを知ってか知らずかじゅうたんは先程よりもスピードを落としながらもそれでも充分はやいくらいの振り落とされそうなスピードで先へ進む。

これじゃあ、目的地に着くまでに私の命が持つかどうか⋯⋯。
届け物をおさえながら辺りに目をこらす。

一瞬で通り過ぎてゆく景色。

そんな中で私はすごく気になるものを見つけた。

「あれ⋯⋯あの子何してるの?⋯⋯。止まって!!」

私がいきなり怒声をあげたことに驚いたのか止まってくれるじゅうたん。

「ねえ、あの建物の屋上にいる子のところに行って!」

なんだかただならぬ雰囲気を感じとって焦る私。
そんな私の気持ちがじゅうたんにも伝わったようでじゅうたんも焦ったようにそこへ向かう。しかしすぐに方向転換して建物から離れていってしまう。

「ちょっと!あの子のところに行ってってば!」

お母さんの言ったことを守ろうとしてるんだろうけど届け物をし終わった後だとなんだか間に合わないような気がするのだ。

「方向転換!!」

母さんが父さんにしゃべるような口調でそういうとじゅうたんはようやっと私の指す建物へ向かい進み出す。

建物の屋上に立つ少年の表情がはっきりと見えてくる。
暗く哀しそうな全てに絶望したような表情《かお》。
彼は屋上の縁に立つとひとつ自分の中で何かを決心したような表情を見せ、そしてーー。

「飛び降りたっ?!」

余りの驚きに空いた口がふさがらない。じゅうたんもほうきも何もなしに飛び降りたの?どうして?
真っ逆さまに地面に向かって落ちていく彼。

「急いで!!」

少年が地面に落ちる。
間に合わない。
思わず目をつむってしまった、その時。

「うぐっ」

苦しげなうめき声をあげて私の膝の上に落ちてくる少年。
その少年の下からなんとか届け物をとり少年の前へ持ってくると届け物と一緒に抱きかかえるような形をとる。

「よしっ!出発しんこーっ!」

そんな私の声にじゅうたんは何も反応を示さない。そこでもう一度口を開こうとするとじゅうたんはすごい勢いで動きはじめ、油断していた私は落とされてしまった。
といっても今さっきまで地面すれすれのところを飛んでいたのでお尻がズキズキと痛むくらいで済んだが⋯⋯。
それでも、

「痛い⋯⋯」

「うっ⋯⋯」

そんな時私の腕の中で少年が目を覚ました。
やっと⋯⋯やっと、この世界から離れられると思った。

これで、楽になれるんだと思った。
だから、どんな衝撃がきてどんなに痛くても我慢できると思った。
だってその痛みさえ去ればこの傷みに満ちた世界から消えられるんだから。

だけどその痛みは思っていたものとはずっと違った。
鼻が思い切り曲がってズキズキと痛む。それ以外に痛みはなくすぐにあたたかな人の温もりに包まれた。
死ってこんなにあっけなく柔らかなものなのだろうか。
ここは天界、なのだろうか。
けれど自ら命を絶とうとした者が天界に行くことなんてできるはずないのに。

体に先程よりは小さいドスンッという衝撃が伝わってくる。
恐る恐るといった感じでゆっくりと瞳をあけていくと目の前には一人の少女の心配そうな顔があった。
頬に広がるそばかすが印象的なその少女はスタルイトのような鮮やかなオレンジ色のボサボサ髪を一つにしばっていてライトグリーンのタレ目をした優しそうなおっとりとした雰囲気の女の子だった。

もしかして⋯⋯。いや、もしかしなくても!
「僕⋯⋯生きてる⋯⋯のか?」
「うん、生きてるよ」
目の前の少女が無邪気に微笑む。
ああ⋯⋯最悪だ。
覚悟を決めて、遺書まで書いてきたのに⋯⋯。
悔しい。哀しい。苦しい。僕はまだ生きなきゃならないのか。
「実はね、落ちてく君を魔法のじゅうたんに乗って助けにいったんだけど魔法のじゅうたんに落とされちゃって⋯⋯。大丈夫?痛くない?」
そうか。こいつが僕を⋯⋯。
「傷いよ」
「あっ、そうだよね。痛いよね。どこらへんが痛い?一応塗り薬は常備してるんだ」
少女が胸元のポケットから取り出したのは小さな半透明の入れ物。蓋をあけると思わず鼻をおさえたくなるような匂いが漂ってくる。
「はやくそれをしまってくれ。僕の傷みはそんなものでは治らない」
「え、そうなの?でも私傷に効くような薬は手持ちのアペルチアしか持ってなくて⋯⋯。あ、そうだ!」
おっとりしているようで案外人に話す隙を与えない少女。
「痛いの痛いのこっちへこーい」
「⋯⋯⋯⋯なんだよそれ」
「今ので痛いのが私の方へ来たんだよ。うちの父さんがよくやってくれてね」
そういってあたたかな笑みを浮かべる少女に彼女は自分とは全く正反対の人間なのだと確信する。
「⋯⋯僕を助けてくれてどうもありがとう」
心からの皮肉を込めてそういうも彼女から返ってきたのは優しくあたたかな声音の
「どういたしまして」
だった。
僕はひとつ大きなため息をつくと立ち上がって歩き出した。
どこへ行こう。
もう遺書は読まれてるだろうしあの親のことだ。今頃は聖警備騎士隊が出動して僕を捜索していることだろう。家に連れ帰られればもう二度と外には出さないなどと言われるかもしれない。そんなの絶対に嫌だ。
僕にはやっぱり逃げ道などない。
最初から、ないのだ。
神様は賢いな。弱い僕がすぐに逃げ出すことを見越しているのだろう。
「待って、君」
振り返ればあの少女がトタトタとこちらへ駆けよってきた。
「なにか用?」
下がってきたメガネをクイッと押し上げながら少し厳しい声音でそうたずねる。
「ルミナス69番地の⋯⋯なんだっけ⋯⋯波の月⋯⋯月見なんとかってとこ、わかる?」
申し訳なさそうな顔で少し大きめな袋を両手に抱えたその人は懇願するようにこちらを見つめてくる。
土のにおいがしてくる簡素な服装や全体的な雰囲気からこの娘は田舎っ娘なのだろうなと推測していたが本当にそうらしい。
土地感のなさ、というか、土地の名前がうろ覚えな時点で丸わかりだ。
「69番地波の目横丁月の見える丘、じゃない?」
「あ、そうそう!すごい!」
ライトグリーンのタレ目を目いっぱいにひらいて拍手してくる少女。
生まれてこの方ルミナスで過ごしてきた。ややこしくて面倒臭い土地の名前を覚えるのにももう慣れたし観光客に道を聞かれることも多かったから僅かな情報でそこをして探し出すのも結構得意なのだ。
「で、波の目横丁って全部で8つの目があるんだけど、どこの目かわかる?」
「あー⋯⋯」
ポカンと口をあけて困り果てた様子になるとボサボサのスタルイト頭をもっとボサボサにして
「よくわからないかも⋯⋯」
なんていう少女。
こういうしっかりしてないマイペースでおっとりしてる奴が僕は大嫌いなのだが。だからと言って困っている人を見放しておくこともできない。
「なにかおぼえてることは他にないの?」
「あっ、白いサイボーグって言ってたかも!」
「それ絶対違うだろ」
あまりにも呆れすぎて自分がこの先どうしようかとか一切忘れていた。
「んー、じゃ、白い祭壇かな?なんかそんなニュアンスだったんだよねー」
しまいには悪びれもなくそういうものだからため息すらでてこなくなる。
しかし、ニュアンス⋯⋯。ニュアンスでいうならさいぼーぐ⋯⋯さいだん⋯⋯白い⋯⋯。
「とにかくね、建物なんだよね。お家、お家!これ届けるんだけどさ。」
建物⋯⋯。建物で白い⋯⋯。
「もしかして、"帰らずの館"じゃない?」
「うん?」
それが正解なのかよくわからないような表情を見せる少女にひとつため息をつくと説明をはじめる。
「"帰らずの館"っていうのはルミナス69番地波の目横丁5の目月の見える丘最奥の白い館なんだ」
「あ、そうそう!そこだよ!"最奥"の白い館だ!」
嬉しそうに拍手をする少女。
それにしたって"最奥"を"サイボーグ"やら"祭壇"やらと勘違いするなんてどうかしているとしか思えない。
「よかったらそこに連れてってもらえないかなあ?⋯⋯。乗ってたじゅうたんが暴走しちゃって⋯⋯」
えへへ、と笑いながらそういってくるその娘にまた大きくため息をつくと
「別に構わないよ」
といった。
どうせ帰る場所もないんだ。
"帰らずの館"は訪れた者が一人も帰ってきたことがないという謎の館で、聖警備騎士隊ですら手をださないような場所。
少なくともそこへ行けば両親の元へ突っ返されることはないはずだ。
送っていくぐらい構わないだろう。
ついでに館の中を覗いてこう。

僕はポケットから小さくおりたんだハンカチ、もとい魔法のじゅうたんを取り出した。
「君も魔法のじゅうたん持ってるんだね!」
興奮したようにそういってくる少女にボソリと
「一応魔法学校の生徒だから、ね」
とつぶやく。
しかし少女は僕が呪文を唱えて広げたじゅうたんに夢中になっていて、小さな独り言なんて聞いていなかったようだ。
別に聞いて欲しかった訳ではないがなんだか腹が立つ。
僕と彼女は性格的に合わないだろう。というのも、会って間もない今ですら彼女とは正反対だと思えたから。
「そういえば、君の名前はなんていうの?」
ちょうど二人は乗れそうな大きさの長方形型に広がった魔法のじゅうたんに乗り彼女が乗るのを待っていると無邪気な声音でそんなことをたずねられる。
「⋯⋯タグ」
タグなんて変な名前言いたくはなかった。
が、"帰らずの館"までの仲なのだ。特段害はないだろう。
「そうなんだね!私はベジっていうんだ。よろしくね」
なんていいながら僕の後ろに乗るベジ。
「⋯⋯そう」
ベジ。彼女には変な温かさがある。
僕が生まれてきてこのかた感じたことのないような。
いや、感じたことがないから温かいと感じるのだろうか?⋯⋯。まあ、そんなことどうでもいいのだが。
「"帰らずの館"まで頼む」
そういうとじゅうたんはゆっくりと浮上していき、やがて69番地波の目横丁の方角へと進み出した。
「それにしても"帰らずの館"なんておかしな名前だね。」
「そう?別に普通じゃない」
多くの人が飛び交う空の通りを飛んでいるとこの世界から消えられなかったことに対するひどい虚無感のようなものが溢れでてきてまともに思考が働かなくなった。
ぼんやりと空を見つめながらベジにたずねられたこと話しかけられたことに受け答えする。
「なっ!?」
「あ、ごめんね。とんがってるから変わってるなって思って」
唐突に耳に触れられビクッと肩を震わした僕に彼女は悪びれもなく答える。
そういうところが僕からするとひどく甚だしいが今はその怒りのおかげでぼんやりとした不安定な思考から抜け出せた。
ある意味感謝すべきかな。
「僕はエルフだから」
「エルフ?エルフってあのエルフ!?」
「あー、はいはい。そのエルフだよ」
興奮しているベジに冷めた声音で答える。
「昔よく父さんが読んでくれた絵本にエルフのお姫様が出てきたんだけどね、すっごく綺麗で私もこんなふうになりたいなあって思ってたの」
そこまでいうと苦笑して
「っていっても大きくなった今はそんなの無理だってちゃんとわかってるんだけどね」
「⋯⋯そう」
「エルフの国ってあるの?」
「⋯⋯どこかに、ね」
「そうなんだあ。いつか行ってみたいなあ」
どうして彼女はどんなに冷たい声音で受け答えされてもその温かさが消えないのだろう。

⋯⋯きっと僕とは何もかもが正反対だから、だよな。

じゅうたんが少しずつ下降をはじめる。
見えてきたのはバックに大きな満月を称えた白い大きな館。あたりは漆黒の闇が覆い白い館と月が目に痛いくらいだ。手前の波の目横丁はいつ見てもおかしな感じ。
常に波のように緩やかに形を変えているこの横丁で歩いて目的地に向かうことはかなり難しい。

"帰らずの館"手前で魔法のじゅうたんから降りると僕は改めてその館を見つめた。

可笑しいな。この世界から消えたいと思っていたくせにこの"帰らずの館"を前にして僕は怖がっているのか?
訪れた者の誰もが、あの聖契約騎士隊までもが帰ってこなかったというこの館に。
「いやー、ありがとう、タグ。あの、言いにくいんだけどね⋯⋯」
そこまでいうと体をもじもじさせ不自然な動きをするベジ。
小さくなったじゅうたんをハンカチのごとく折り畳みながらそんな彼女の次の一言を待つ。
「良かったらこの届けものが終わったら家まで送ってってくれない?」
「⋯⋯⋯⋯」
「お礼にスタルイトのパイあげるから!うちの母さんのは絶品なんだよ」
そういってから悲しそうな顔でボソリと「ほんとは私への報酬なんだけど」という。
そんなベジという少女に僕は目を丸くした。
というのも僕が気づかぬまに笑い声をあげていたから。
自分のことなのにひどく驚いた。僕はこんなにも普通に笑えるのか。
「じゃあ、行こう?」
少し悲しそうにそういって荷物を抱え館へ歩き出すベジ。
僕はふと我に変えるとそんなベジに続いて歩き出す。
「パイはいらないよ」
そんなたった一言の言葉に一気に表情を変えるベジには飽きがこない。
大きな大きな白い館を前にしても不思議と先ほどのような恐怖は湧いてこなかった。
大きな白い扉をトントンと二回ノックする。

「すみませーん、お届けものでーす」

できるだけ声を張り上げてそういうも、一向に人の気配はしてこない。

「どうしよう。いないんじゃどうしようもないもんね」

手に持った袋を掲げてみせて困り顔になる。

「そもそもその袋には何が入ってるのさ」

そうたずねてくるのは、私より少しばかり背の低いエルフの少年タグ。

私とは打って違って頭の良さそうな少年。

何故屋上から何もなしに飛ぼうとしていたのかはまだ聞いていないけれど、きっと何かしらの理由があったのだと思う。だからもっと親しくなってからその理由を聞いてみたい。

不思議とタグとは今だけじゃない長いお付き合いになるような予感がするから。

「うーん、なんだろう。お母さんからは何も聞いてないしお客様に渡すものを勝手に見るなんてできないし⋯⋯」

「なら僕が見る。僕が勝手に見るだけならベジに迷惑かけないだろ」

そんな言葉になんと答えようか考えているうちに袋を取り上げられる。

「⋯⋯薬草?」

袋の中をのぞき込むと訝しげにそうつぶやくタグ。
そんなタグに思わず私も袋をのぞき込む。

「あー、これはシルベコウだね」

微かながらでも鼻にツンとくる香りと特徴的な花形の葉。間違いないだろう。

「シルベコウ?⋯⋯。それはどんな効能があるんだ?」

「んーとね、解熱剤にもなるんだけど、他にもなにか使い道があって結構貴重なもののはずだよ」

「ふーん」

「あ、でもうちでは結構栽培しててね、うちの中だとそんなに貴重じゃないかも」

笑いながらそういうもタグからはなんの返答もない。
先ほどから何かを考え込んでいるみたいだけど大丈夫だろうか。

「それをこの館まで配達すればいいんだよね?」

「え?うん、そだよ」

「ならそこに置いといてもう行こう」

「でも、そしたら代金もらえないよ?」

「そんなのどうだっていい。はやくそれをそこに置いてくれ」

タグの危機迫っている雰囲気に慌てて届けものを扉の手前に置く。

「よし、行こう」

タグがそういった、その時。ギイィッと木がかしむ音をさせながら真っ白の扉がゆっくりとこちらに向かって開いた。
中をのぞいてみると、見た目とは正反対で真っ暗だった。漆黒の闇だけが、そこにはある。
そういえば父さんが世界には人の姿を成さぬ者が多くいるってよく言ってたな。
じゃあこの人は闇、なのかなあ。
闇だから光に憧れて白い館に住んでいるのかも。
扉の手前に置いといた届けものを持ち上げると扉の向こうの漆黒の闇に向かってそれを差し出す。

「これ、お届けものです。どうぞ」

そういうも一向に返事は来ず中に足を踏み入れようかと足を前に踏み出す。

「ベジ!!」

タグに大声でそう言われ思わず踏みとどまる。

「どうしたの、タグ」

振り返りそうたずねた時、背後に人の気配を感じてそちらを見やればそこには漆黒の闇と同じ色のローブを着た人がいた。

「あ、こんにちは。これ、お届けものです。」

そう言って届けものを差し出す。
気づくとタグが私の隣に来ていてひどく険しい顔をしていた。
接客で一番大切なものは笑顔、なんだけど、タグは魔法学校の生徒でそんなこと何も知らないんだろうし、仕方ない。
もっとも私自身接客なんて生まれてこのかた初めてなんだけど。

漆黒のローブから伸びてきたのは白く細い線の手。しなやかに伸びた指先には長く先のとんがった赤色の爪があって、漆黒の闇の中にその赤はよく映えた。
伸びてきた手は私の持っていた届けものを掴むとまた漆黒の闇の中へと消えていく。

「えっと、お代の方を頂いてもよろしいですか?」

何も喋らないその人にそう問いかけるもやはりなにも返ってはこない。

「失礼ですが、あなたは」

タグがそういったその時、スッとこちらに手が伸びてきて私の手首を掴んだ。そのことに心底驚いているうちに館の中へと引きずり込まれる。

「タ、タグ!」

思わず名前を呼びタグの方へ手を伸ばすとタグは慌てた様子で私の手を掴んだ。
そして⋯⋯。

「「うわああぁぁぁ」」

私とタグは闇の中へと引きずり込まれていった。
私とタグが館の中に入ると誰も触れていないのにバタンと音をたてて扉がしまる。

それによって一層あたりは漆黒の闇に包まれ何も見えなくなってしまった。感じるのは右手首を掴むひんやりと冷たい手と、左の手をギュッと握っている手の温かさだけだ。
やはりここの主は"闇"なのだろうか。だから少しでも光が入るのが嫌で代金を払うのも中で、ってそういう意味なのかもしれない。
不思議と体が浮いているような感覚がする。
と思ったら本当に浮いていた。足が地についていない。
一体どういうことなんだろう⋯⋯。

「うわあっ!?」

「タグ!」

唐突な悲鳴とともに右手に感じていた温もりが消え去る。
そちらに気をとられているうちに突如頭を鈍器で殴られたような痛みが襲ってきて私は次第に意識がまどろんでいくのを感じた⋯⋯。



「んんっ⋯⋯」

目を覚ますと自分は椅子に座っていて辺りは先ほどと打って変わった白い空間が広がっていた。
それにしても昼寝よりもずっと寝覚めが悪い。頭が痛むし、その痛みは今まで感じたことがないような強いものだ。

「タグは⋯⋯」

どこに行ったんだろう。それに、ここの主の人は?一体どこに⋯⋯。

「おはよう。調子はどう?」

そんな声に目線をあげるととても綺麗な女の人がいた。
艶やかな腰丈ほどの黒髪、肌は白く形のいい唇は艶やかな赤色。少しつり上がった瞳は吸い込まれるような漆黒の色をしていて、瞳を縁取るまつげはお人形さんのように長い。
洋服はかなり大胆で露出度が高い。胸元は大きく開いており、下は下着のような形の、これまた露出度の高いものだ。その二つが合わさったようなその服は先ほどまでいた空間と同じ漆黒の色をしている。ぴったりとした服なので体のラインが一目でわかってしまうのだが、この人はとても スタイルがいい。

「あの、あなたがここの主さんですか?」

「ええ、そうよ」

「タグはどこにいます?」

「ああ、お連れの方?お連れの方は途中で少し用を足しに行ったみたいよ」

「用を足すって何をです?」

そうたずねると先ほどまでにこやかだった女の人の眉間が一瞬ピクリとする。

「トイレのことよ」

「ああ、なるほどお」

都会の人ってトイレのことを用を足すっていうんだ。こんなこと聞いて無神経だったな。

「届けもの、ありがとう。これは代金よ」

そういって女の人が私の手の平にお金をおく。

「あ、ありがとうございます!」

そういって初めての配達でもらった代金を握りしめる。

「それじゃあ、タグがトイレ⋯⋯用を足し終わったら行きますね」

「ええ。待ってる間、これでも飲んでいているといいわ。」

そういって女の人がパチンッと指を鳴らすと私の目の前に突如として真っ白なティーカップが現れた。それはフワフワと私の手元へ下降してくる。私は慌ててお金をポケットにしまうとそのティーカップを手に取った。

「あったかい⋯⋯」

「でしょう?特製のものよ。それじゃあ、彼が来たら帰ってね。私は少し用があるから」

そういうと口の端をあげて笑みスタスタと歩いていく女の人。
そんな何気ない動作まで綺麗な人だなあ。
そんなことを思いながらティーカップを口に近づける。

「いいにおい⋯⋯」

これ、シルベコウの香りがする。あの女の人は紅茶にシルベコウを使うんだ。そんな使い方初めて知ったかも。
いや、シルベコウの解熱剤以外の役割って紅茶なのかな。

でも、なんだか他に使い道があったような⋯⋯。
まあいいや。いつものように難しい考え事などすぐにどこかへいって、私はそっとティーカップに口をつけた。
一人真っ暗闇の中を漂いながら必死に頭を働かせる。
これはかなりまずいことになった。このままではあいつに連れていかれたベジの身が危ない。
会ったばかりの他人ではあるのだが、状況が状況だ。放ってはおけない。

「我と契約せし者よ、願わくばこの指に闇夜を照らす光を灯せ」

そっとそうつぶやくと僕の人差し指にポッと白い光が灯った。
それによって少しばかり明るみになった空間に僕の予想は当たっていたと気づく。

この空間はおかしな方向にねじ曲げられている。だから体が宙に浮いているのだ。

「我と契約せし者よ、願わくば⋯⋯」

これは魔法を使う時の定型句。ひとによって違ったりもするが意味合い的にはさして変わりはない。
魔法使いは必ず精霊(地、水、火、風、光、闇、それぞれのうち一つ力を宿している。一般の人の目に見ることは出来ないが魔法使いのみ契約時に見ることができる。しかしその姿は魔法使いでも直視できず、さしずめ光の塊のようなものだった)と契約していて、そのおかげで魔法が使える。いわば精霊の力を借りているようなものだ。

「地を盛り上げこの空間のねじれをなおしたまえ」

そうつぶやくと土が床の下で隆起する特徴的な音が聞こえてきて、気づいた時には地に足がついていた。
僕が契約した精霊は光と地と風。
この先でそれ以外の精霊の出番が必要な場面がこないといいけれど。

歩くと床のタイルの間から土があふれでていることに気づいた。

学校では全然上手くいかなかったのにこういう時ばかり上手くいくんだな。

ふとした時この世界から消えたいと願う空白の心にすきま風がはいったような気持ちになる。

しばらく壁つたいに歩いていると明るめの、指に灯った明かりがなくとも中が伺えるような部屋を見つけた。

「⋯⋯⋯⋯っ」
その部屋の異様さに気づくと僕は思わず口元をおさえた。
ひどい吐き気がする。

壁に寄りかかった、よくできた人形のようにも見えるそれは、生身の人だ。
皆一様に意識はないようだが、それにしたってなんて量だろう。

やはり僕の予想は間違っていないようだ。
ここの主は、悪魔⋯⋯。
ここにいる人達はさしずめ悪魔に魂を吸われた人達だろう。

「急がなくちゃ⋯⋯」
普段は独り言なんてめったにもらさないのだが余りにも怖くて声をださずにはいられなかった。

クルリとUターンすると慌てて駆け出す。

悪魔は人の魂は喰うがエルフの魂は喰わないのでは?
それなら今逃げれば自分は助かるのでは?
そんな弱い心に嫌気がさしてくる。
黙れ、黙れ、黙れ!

自分から逃げるようにひたすら闇の中を駆けていくと明るい光がもれだしている部屋を見つけた。その部屋の少しばかり開いた扉のドアノブに触れる。ゆっくりと扉をあけ中をのぞき込もうとすると

「あら、こんなところにいたの」

そんな声と共に背後に気配を感じる。そのことに気づいた時にはもう遅く、僕の喉元には長く鋭い爪がくい込んでいた。

苦しい。爪がくい込んだ場所から何かがツーっと垂れる感覚。
それが何か理解すると僕は卒倒しそうになった。
血だけはどうにも苦手なのだ。

「私、エルフだけはどうにも好きになれなくてね。やっぱり人間の欲まみれの魂が一番美味しいのよね」

「⋯⋯⋯⋯彼女は欲にまみれてなんかいない」

この部屋の中にきっと彼女がいる。
そう感じると少しだけ強くいられるような気がした。

「ああ、あの子が俗世間に触れていない田舎娘だから?」

べつに彼女が田舎娘だから、と言いたかった訳ではないのだがそういう意味合いになってしまうかもしれない。

「私ね、欲まみれの魂も大好きだけどその逆も大好きなのよ」

妖艶な声音で紡がれる恐ろしい言葉達。
ゾッとして上手く働かない思考でここからどうベジを救い出すかを考える。

「第一エルフって私達は何百年も生きてますよーなんでも知ってますよーって態度が腹立つのよねえ。知ってる?悪魔には寿命って概念がないのよ」

少しずつくい込んでくる爪にはからずも意識が遠のいていく。
それに加え悪魔のしっぽの話を思い出した僕はそちらにも気を配らなくていけなくなった。
以前読んだ本には悪魔のしっぽに刺されると異性は虜にされ同性は異性に対する魅力をなくすとかかれていた。
この場合僕が彼女のしっぽに刺されれば彼女の虜となってそれこそまともに考えることができなくなる。

動き出せ。スキをついて。
そうすれば相手の虚をついてベジを救い出せる。そしてこんなところからはおさらばできる。よし。

「あんただって人間のこと、嫌いなんじゃないの?」

冷たいその声音に僕は思わずこう答えた。

「ああ、大嫌いだよ」

と。他の種族と比べてとりわけ欲深い人間が僕は嫌いだ。

「なら、協力できるんじゃないかしら。私達」

自分の欲のためなら誰かを騙すことすら厭わなくて自分勝手で傲慢な彼らが大嫌いだ。

少しずつ緩められる手に息がしやすくなる。
ただツーっと垂れていくものはとめどない。

「人間が嫌いな者同士⋯⋯。奴らに仕返ししてやりましょうよ」

ただ、スタルイトのパイ一つに一喜一憂するような人間が僕は嫌いじゃない。

「きっと楽しくなるわ」

お気楽で能天気でもう少しで終われそうだった僕の人生から終りを取り上げてしまった人。
そんな人が人間の中にはいてーー。

「なっ!?」

僕の腕スレスレまできていたしっぽに隆起した土が絡みつく。それは終いに彼女の体全体を包んでいった。
呪文を唱えずに魔法を使えたのは初めてかもしれない。

「僕はまだあの子を消させられるわけにはいかないんだ。なにせ"仕返し"が終わってないんだからね」

そう、僕から終わりを取り上げたあの人には僕自身で直接仕返しなくちゃいけないんだからね。

「くそ!エルフの坊主が!!」

そう叫ぶ悪魔はじきに土からはいでてくるだろう。急がなくては。

目の前の少しだけあいた扉を全開にすると中に飛び込む。

「ベジ!!」

何もかもが真っ白のその空間の真ん中、白い椅子に座った彼女は意識を失ったようにグッタリとしている。
そんな彼女の手元にはティーカップが浮いていて合点がいく。

シルベコウ。あれには人の精神をリラックスさせる作用があるのだがあまり多く使用すると睡眠薬として機能し人を深い眠りの世界へと誘うのだ。
以前読んだ本では悪魔は寝ている人間の方が魂を吸いやすいと書いてあった。
だからーー。

慌ててベジの元に駆けていくと細い肩をつかみ揺さぶる。
ボサボサのスタルイト色の頭が前後左右に揺れて草原の暖かな香りがした。そんな香りにこんな時だというのに心が安らぐのを感じる。

「残念だったわね」

そんな声に振り返ると悪魔はもう土からはいでてきていてすぐそこにまで迫ってきていた。

しかしこちらにはもう打つ手がない。これ以上魔法を使うのは危険だ。
魔法は己の力、エネルギーを消費するものでありあまり使いすぎると限界を超え命を落としかねない。これは魔法学校で耳にタコができるほど言われたことだ。

しかし状況が状況だ。抵抗せずに死ぬくらいなら抵抗して悔いなく死にたいものだ。

そんなことを考えている自分に自分のことながら驚いた。
ぼくは結局"生きたい"のだろうか。
わからない。わからないけどーー。

「我と契約せし者よ、突風をおこし彼の者を吹き飛ばせ!」

首からの流血もあってかなり消耗していた僕の体力が目に見えて限界に近づいていく。

起こった突風は練習で出す時よりも小さくて悪魔にとっては飛んできた羽毛を払うのと同じような行為らしい。悪魔の手が触れた途端に消え去る突風にいよいよ倒れてしまいそうになる。

けれどここで諦めることなんてできない。
ベジを守らなくてはーー。
いまだかつてこんなにも気力に満ちたことがあったろうか。いや、ない。

そうだ、これならーー。
ある考えが僕の頭の中に浮かぶがこれをするにはベジが目覚めなくてはいけない。

我と契約せし者達よ、彼女を目覚めさせよ。
心の中で強くそう願うと僕は悪魔を挑発しこちらに気を向けさせようとここぞとばかりに人を見下すような目をした。

「お前は愚かだな。人のことを嫌いながら人の魂を喰らう。それがどういう意味だかわかっているのか?」

「わかってるわよ?私はね、あいつらを取り込んでるの。もう、息もできないくらいに、ね」

そういってゾッとするような笑みを浮かべた瞬間悪魔の背中に漆黒の大きな翼がはえた。

「そしてそれは、底なしの憎悪があるからこそ、成せるもの。だからね」

少しずつ、でも確実にベジから離れるように右側へずれていく。

「あんたも食べてあげる!!」

その言葉が発された瞬間目も開けられないような風が巻き起こる。
気づけば奴は上空にいた。

「うああぁぁぁ」

しまいには牙もむき出しにして僕めがけて急降下してくる悪魔。

まずいな。僕は体力や反射神経に関しては全く自信がないのだが。

奴がやってくる、噛み付かれる、その直前前に転がる。

悪魔は前に避けるとは思っていなかったようで、僕がいた場所に空振りする。

「貴様!!」

「悪魔さんはとんだマヌケのようだね。エルフの坊主一人も喰らえないんだから」

「うああぁぁぁ」

いちいち叫びながらじゃないと飛べないのか?なんて嫌味を言う前に僕の肩に激痛が走った。

言葉通り、目にも止まらぬ速さで僕の元へ飛んできた奴は思い切り僕の肩に牙をたてた。いよいよ意識が遠のきそうになるが、悪魔の背後にいるベジの姿を確認するとなんとか気を保つ。
しかししばらくすると悪魔は僕から離れ宙を飛びながら自慢げにほくそ笑んだ。

「ねえ、坊や、痛い?痛いでしょう?あんたが私の心傷をえぐった痛みと同じ痛みよ」

「ふーん。大したことないね」

これ以上持つだろうか?
「そう。ならもっと痛めつけてあげないとね!!」

いや、持たせなくてはーー。
朧げな意識のなかで僕はもう一度立ち上がった。
広い草原に一人大の字に寝転ぶと体に感じる様々なものに神経を張り巡らせる。
動物の鳴き声。頬を撫でる爽やかな風。暖かな太陽の光。

「今日はいいお昼寝日和だなあ〜」

そうつぶやくとゴロリと寝返りをうってくの字に曲げた腕に頭をのせる。するとたちまち眠りの世界へと誘われていく。
気持ちいい⋯⋯。おやすみなさい⋯⋯。



目を覚ますとあたりはすっかり夕焼け色に染まっていた。
起き上がり大きく伸びをすると地平線の彼方に見える大きな太陽を見つめる。

「綺麗な夕日⋯⋯」

今日は随分ゆっくりとお昼寝できたな。
その分沢山母さんに叱られそう。はやく帰らなくちゃ。
そう思って立ち上がるとシャンシャンという鈴の鳴るような音が聞こえてきた。

あたりを見回してみる黄色と白と黄緑色の手のひらサイズの光の玉が浮いていた。

これが音の発生源だと思うけど⋯⋯。
一体何なんだろう。

その光をジーッと見つめているうちにある考えが浮かんでくる。

そういえば昔父さんに読んでもらった本に魔法使いが契約する時だけ可視化できるという精霊の存在がかかれていたっけ。

明確な理由は何もないんだけど、なんだか、そんな感じがする。

何かを必死に訴えるように私の周りを飛び回りシャンシャンと音をたてる精霊達。

「くすぐったいよ」

笑いながらそういうと精霊達は一層シャンシャンという音を強めた。

「わかった。わかったから」

私が観念したようにそういうと『ついてこい』とでも言うように三つとも同じ方向へ進み出す。
私はそんな精霊達を追いかけてまだ眠気でぼんやりする頭を抱えながら駆けていった。



「ええ⋯⋯。これ、どうしろっていうの?」

精霊達について駆けていくと見たこともないような大きな溝が目の前にあらわれた。
パックリと口を開けたその大地の裂け目はのぞけばのぞくほど漆黒の闇がこちらに迫ってきているような錯覚に陥る。

向こう岸など見えず、というかないのかもしれないが、とにかくそこには無限の闇が広がっていた。

闇の中へ飛び込め、と言わんばかりにシャンシャンと音を鳴らす精霊達には流石に苦笑いを浮かべる。

「いやいや、流石にこれは無理だよ」

『ベジーー!!』

「え⋯⋯なに今の⋯⋯頭の中にキーンって」

誰の声だろう。
出てきそうなのにでてこない。
いつもならここでまあいっかってなるけどそうもならない。
思い、出さなくちゃ。

「タグ!!」

その名が浮かぶと私は真っ先に闇の中へと飛び込んだ。そんな私の周りを精霊達が囲む。
真っ暗な闇の中。落ちているのか、浮いているのか、それとも上がっているのか。全くわからない中必死に目を開けて光を待つ。

そんな時だった。
一筋の光が下からさしてきてそれはやがて大きな光をとなり私と精霊達を包んでいった。



「⋯⋯っ!」

目を覚ますと前方に肩から流血し倒れ込んでいるタグと館の主である女の人がいた。
私は立ち上がると真っ先にタグの元へと駆けた。
頭がグラングランするが今はそんなこと気にしていられない。

「タグ!」

「あら、起きちゃったの?」

そういって振り返った女の人の顔や体にはベットリと血がついている。
そのことに思わず息を呑むがすぐに母さんが父さんを叱るような口調で
「あなたがタグを傷つけたの?」
と問う。

「ええ、そうよ。彼、エルフだけれど結構美味しいわ。血を舐めただけでわかるのよ。そいつが美味いか不味いか」

これって、悪い夢かなにかじゃないよね?
もしそうだとしたらさっきのが現実で今のは悪夢。もしそうじゃないとしたらさっきのが夢で今のが現実だ。

「彼、エルフにしては欲が強くてね。『消えたい』とか『死にたい』とかいう欲求がすごく強いの」

消えたい?死に⋯⋯たい?⋯⋯。なにそれ⋯⋯。

その瞬間私の中であることに合点がいった。
タグが何もなしに飛び降りようとしてたのってまさか

「どいて!」

先ほどまで私の中で溢れかえっていた恐怖など嘘のように消え去りタグに対する怒りがフツフツと煮えたぎってきた。

女の人はそのことに拍子抜けしたようですんなり私を通してくれた。

倒れ込んでいるタグを抱き抱える。
息もたえだえな彼に今私がすべきことは一つ。

パシンッ
平手打ちした音が白い空間に虚しく響く。

「え⋯⋯⋯⋯ベ⋯⋯ジ⋯⋯起きたんだ⋯⋯」

微かに開いたマリンブルー色の瞳を細めて優しくそういったタグの金髪がフサリと私の腕に落ちる。

「起きたよ。あとすごく怒ってる。」

そういった途端に私の視界にジワリと涙が溢れた。

「消えたいとか、そんなの、悲しすぎるよ。一緒に生きようよ」

涙がとめどなく溢れてきて私の言葉を聞いた直後のタグの顔はぼやけてよく見えなかった。
けど涙を吹くとそこには優しくも哀しい笑顔があった。

「ありがとう」

私の肩にまるで何かから庇うようにタグの腕が回されハッとして振り返るとタグの腕に深く悪魔の爪が刺さっていた。

「ど、どうしよう⋯⋯ごめん⋯⋯ごめん」

涙が溢れるばかりで何も言葉がでてこない。何も出来ない。
生まれてこの方野菜を育てたり家畜を世話することしかしたことがないからこんな、悪魔との戦いなんて考えたこともなかったしどうすればいいのか検討もつかない。

「⋯⋯け⋯⋯いや⋯⋯く⋯⋯」

かぼそい声音でつぶやかれたその言葉に必死に頭を働かす。

「契約!」

タグが精霊達と契約しているように私も契約すればいいんだ!
でも、どうやって?そんな疑問も浮かんだ瞬間に消え去った。
私は振り返ると今まで生きてきた中で一番の大声で
「私と契約してください!!」
と叫んだ。

その瞬間悪魔の周りを金色の輪っかが囲み悪魔は身動きがとれなくなった。
そのことに驚いたのか悪魔は驚いた表情で金色の輪っかと私を見比べた。

「············あんた、本気であたしと契約しようとしてる?」

「うん。本気だよ」

「死ぬわよ、あんた」

「なんで?」

「は?そんなこともわからないの?そいつ見てたらわかるでしょ」

「うん、そうだね、あなたがとても凶暴で乱暴な悪魔だってことはわかるよ。」

「だったら今すぐやめなさいよ。本気で後悔させてやるわよ!」

そういってから口元を歪めて
「いいえ、後悔も出来ないようにしてあげるわ」
と言い放つ悪魔。

「じゃあ、私は私と契約してよかったって思えるような人になる」

「⋯⋯⋯⋯」

黙り込みまっすぐに私の瞳を見つめてくる悪魔。

「⋯⋯なんにも考えてない天然ボケの田舎娘」

「うん、そう。でも、私頑張るから」

光を宿していなかった漆黒の悪魔の瞳が徐々に明るくなっていく。
何かを考え込むような悪魔。しばらくの沈黙。

これで失敗したらどうなってしまうんだろう。そんな質問の答えはどれも最悪なものばかり。大丈夫。きっとうまくいく。
苦しいくらいに鼓動がはやくなる。

悪魔は少し呆れたようにひとつ目を閉じてから大きくため息をついた。

「私の名前はセレナ。」

開かれた瞳は悪戯そうに、けれどとても輝いて見える。

「そうなんだ、よろしくね、セレナ!」

「よろしくね、じゃないわよ。とっとと契約の儀を済ませなさいよ」

そっぽを向いてムスッとそういうセレナ。

「契約の義⋯⋯ってどうやるの?」

「はあ?あんた、粛清の輪を出しといて契約の義を知らないってどういうことよ。いい?名前を呼んで後は適当に我と契約したまえとーかなんとか捧げものしながらいうの。あと言っとくけどね、あんたと契約してやるのはあくまで退屈しのぎ。契約したってあんたのこと傷つけないとはかぎらないんだからね」

「うん、わかった。でも捧げものなんて⋯⋯」

「これでも使ったら?」

そんな声に振り返ると先ほどまで血を流して倒れ込んでいたタグがそんなの嘘みたいに出会った時と全く同じ装いで私のすぐ後ろにたっていた。

「え?タグ!?ケガはどうしたの?」

「どこぞの悪魔さんが治してくれたみたいだよ。ほんとに意味がわからない悪魔だよね」

そういってタグがセレナを一瞥するとセレナが意地悪く笑う。

「なあに?お望みなら今度は瀕死にしてあげたって構わないのよ。私は。第一私退屈がしのげればなんでもいいし」

「それはどうも。でももう間に合ってるから」

嫌味っぽくそういうタグから手渡されたのは金色の細かな細工が施された綺麗な指輪だった。

「え、いいの?タグ。捧げものにするんだよ?」

「いいよ。⋯⋯そんなに……大事なものじゃないし」
「?そうなんだ。じゃあ、遠慮なく」
そういったところであることに気づく。

「もうタグを守る必要もないしセレナは攻撃してこないみたいだし契約しなくてもいいんじゃないかな?⋯⋯」

その発言の後暫く沈黙が続いたがセレナがすかさず、といった感じで
「契約しなかったらまた暴れだすかもしれないわよ!?」
といいだす。その迫力に驚き言葉がでずにいるもタグが一つ大きなため息をつき、呆れたような口調で語り出した。

「この悪魔さんは契約して《《欲しい》》んじゃない?察してあげなよ、ベジ」

「え、そうなの?セレナ」

「そんなわけないでしょ!?ちょっとそこのエルフの小僧なに考えてんのか知らないけどねホラばっかふいてるとあとで痛い目見るわよ?」

艶やかな赤い唇をニイッと歪めるセレナ。
それによってセレナの犬歯がよく見えるのだが悪魔というのは随分と長い犬歯をもっているらしい。犬みたいだ。いや、犬というよりはドラキュラに近いかもしれないが。

「第一に悪魔は本当の意味で契約することなんてできない。いや、できないというかできるはずないんだよ。彼らは人の欲を利用して契約したり契約して利用したりするけどそのほとんどが偽りの契約なんだ。彼らはそうやって人間の欲を利用して操ったり利用したりするのが大好きだからね。」

「そうそう、よくわかってるじゃない、坊や」

そういって笑顔を浮かべるセレナにタグはきみの悪いものでもみたような表情になる。

「はあ⋯⋯。ベジ」

そういうとチョイチョイと手招くような仕草をするので慌てて近くによって耳を傾ける。
おじいちゃんが喋るときはよくこうやって手招きされて耳を近づけていたっけ。耳元で呟かれる言葉がくすぐったいという思いに負けて全然聞き取れなかったのがなんだか懐かしい。

「彼女の周りの金色の輪、あるだろ。あれ、あいつの力なら消そうと思えば一瞬で跡形もなく消せるんだ。ついでにいうと僕とベジを殺すことだって一瞬でできてしまう。なにせ僕のあんなに負っていたケガを一瞬でしかも声にださずに消し去ったんだからね。彼女はかなりの魔法使い手だ。もしかしたらあの伝説の⋯⋯」

そこまでいうとゴニョゴニョと聞き取れない声音になってしまう。

「?なあに、タグ」

「⋯⋯いや、そんなことあるわけない。とにかく、彼女は何を考えてか契約されたがってるんだよ。はやく空気をよんで契約しないとさっきの状況に逆戻りだ」

『空気をよんで』か⋯⋯。母さんにもよく言われたなあ。

「わかった。やってみるよ」

「ちょっと!私抜きでなにコソコソしてんのよ」

明らかにむすくれた表情になるセレナに微笑みかける。

「ううん、なんでもない。じゃあ、契約するね」

「はあ。やっとなの?まあいいわ。契約したらたっぷりこき使ってやるから」

そういってニヤリと笑ったセレナに苦笑いしながらもタグからもらった金色の指輪をセレナにかざして腹の底にたまるように大きく息を吸った。

「悪魔セレナよ!我と契約したまえ!!!」

その途端辺りを強い光が包み、目の前にいたはずのセレナは消えていた。

「え⋯⋯あれ?」

「騙されたか」

タグが妙に合点がいったような表情になった、その時

「あたしはここにいるわよ。なに裏切り者扱いしてんの。っていうか、あんた、声大きすぎ。あんなに大声ださなくても聞こえるっての」

そんな声が聞こえてくる。
けれどあたりを見まわしてみてもどこにもセレナの姿はない。

「やっぱり騙されたか」

「だから騙してないっていってんでしょ、エルフの小僧!ここよ、ここ!」

ふと左手の小指が強い熱を感じて見てみるとタグからもらった金色の指輪が気づかぬ間にはまっていて光と共に熱を発していた。

「あ、ここみたい」

そういって私が左手をかざして笑うとタグは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「こりゃいいや。あの悪魔だか淫魔だかわからない女を見なくて済む」

「ちょっ、タグ」

私がタグを止めに入ろうとするとボンっと白い煙がたちのぼり私のすぐ横にお怒りモードのセレナが立っていた。

「誰が淫魔ですって?小僧」

「⋯⋯⋯⋯」

タグは無言で駆け出した。