施設に着くと、施設長が庭にいて車を洗っていた。
尚央が施設長に声をかけると、
施設長は手を止めて私たちのほうへやってきた。
「今日もご苦労様です、榎本さん」
「いえ、毎日すみません。連れ出してしまって」
「構わないですよ。むしろ感謝しています。
波留ちゃんにとって、外の刺激は大切ですから」
大人たちの会話を耳にしながら、
私はさっきもらったプレイヤーを眺めていた。
尚央の普段使いのプレイヤーを貰えて嬉しい自分がいる。
何故?ほとんど今日会ったばかりみたいなものなのに。
「じゃあ波留。また明日な」
「うん。また明日」
尚央は私の頭を撫でると、颯爽と走り去っていった。
その姿を黙って見つめていると、
施設長が私の肩に手を置いた。
「楽しかったかい?」
「うん。すごく。プレゼントも貰ったの」
「それは良かったね。
さあ、夕食だ。手を洗っておいで」
施設に入って、部屋へ行くとテーブルに日記とプレイヤー、
そして鍵を置いた。
ふぅっと息をつく。
天井を見上げて目を閉じて、今日のことを思い出した。
すると急にキスのことが頭に浮かんで、
途端に心臓が高鳴った。
ドクン、ドクンとうるさい心臓。
目を開けて日記を見つめた。
早く書いてしまわないと。
忘れないうちに、書き記して次に繋げるの。
書きながらふと思った。
キスをしたって書いても、
明日の私は覚えていないんだよね。
だったらキスがどんなものかも分からないじゃない。
こんなことを書き記しても、意味なんてあるのかな。
「こんなことも覚えていられないなんて…」
呟いたら涙が出てきた。
キスをされて浮かれていた私は馬鹿だ。
現実に打ちひしがれて
絶望する羽目になるなんて思わなかった。
そうだよ。覚えていられないの。
楽しかったことも、嬉しかったことも、
あのキスの感覚も全部。
全部今日限定のことなんだもの。
「好き……」
尚央の言葉を反芻させる。
何度も、何度も繰り返す。
そうして気づいた。
好きだと言われた時、私が咄嗟に何を思ったか。
好きだと言う彼に、何て返事をしようとしたのか。
「私も、好き……」
あり得ない。
好きになるなんてあり得ないことだよ。
だってもしもこれを恋と呼ぶのなら、
これは一日限りの恋心になる。
明日の私が尚央を好きかなんて分からないし、
昨日の私が尚央を好きだったかなんてもっと分からない。
そんな恋をして、私は幸せなんだろうか。
そっとノートを閉じた。
キスをされたことは書かないでおこう。
どうせ忘れているんだから、
読み返して混乱するよりは無かったことにした方がよっぽどいい。
私はこの日、嬉しかった瞬間のことを
綺麗さっぱり抹消した。
もちろん、私が尚央を好きだと思った、
この淡い恋心も全部。