「さあ、もう帰らないと」


尚央が時計を見てそう言う。
私はふっと笑顔を消して、俯いた。


「どうした?」


「やっぱり、怖いよ。尚央のことを忘れちゃうのは怖い。
 私、眠りたくない。明日が来てほしくないよ」


「波留、大丈夫だよ」


「ううん、大丈夫なんかじゃない。
 明日朝起きて尚央のことを忘れるのは嫌。
 やっぱり私は尚央と恋をすることは出来ない」


こういう幸せを感じて、明日起きて忘れてしまって、
それを思い出して辛くなって、そういうことを繰り返すなら、
私は最初からこんな記憶、ないほうがいい。


尚央に会わなければ、私の毎日は
それとなく普通に過ぎていく。


私は尚央と、ううん、
誰とも恋をすることは出来ないんだ。


「波留。大丈夫。いったろ?俺がお前を覚えてる。
 お前が何度忘れたって、俺がちゃんと覚えてるから。
 だから、初めましてでいいんだよ」


「えっ?」


「初めましてって言ってくれたら、
 俺は何度だってお前に初めましてって言うし、
 自己紹介をして、仲良くなるから」


「でも……」


「お前が俺を好きでいてくれるなら、
 きっと心は覚えてる。
 ゆっくり思い出してくれたらいい。
 百がダメでも、ゼロになるのは嫌だからな」


尚央が私の頭を撫でる。


前にも、撫でられたのかもしれない。


私はこの感覚をなんとなく覚えている。





覚えている。
そう、覚えている。


尚央の好きな音楽も、喫茶店のことも、
この手の感触も、キスの感覚も、
私は全部覚えているんだよ。


頭では分からなくても、
心が、あなたを全部覚えている。