今まで言えそうで、言えなかったこと。
私からお誘いの言葉を投げ掛けたとき、ユウくんは少しだけ目を見開いた。
そして、黙り込む。
「もしかして、都合悪いかな」
「いや、大丈夫。明日、絶対早く仕事終わらせるから」
異様に早口になるユウくんに、何故だか笑みが堪えきれなくなる。
──夢じゃ、ないんだ。
そう思えたのは、彼の素が見えた気がしたから。
もし、これが演技だったとしたなら、もう感心するしかない。
「もし、演技だったら」と思える程に、仮にそうだったとしても、見抜けない程に、正にこの反応が彼の今の本心なんだと信じられる。
何だか、むずむずする。
「うん。じゃあ、明日こそは、ね」
「ん。楽しみにしてる」
「じゃあ、また」とジャケットを掛けていない方の腕を、控えめにひょいっと上げる。
ようやく歩き出したユウくんの真似をするように、手を振った。
そうすれば、ユウくんは下唇を噛む。
あからさまに伝わってくるものが、私には慣れなくて、とてもむず痒い。
彼の後ろ姿を、少しの間だけ見送った。
再びデスクへ戻った私は、カウンセリングの時間に間に合わせるために、急いで仕事に取り掛かる。
これ程、忙しくしている最中にも、別のことで頭の中が騒がしい。
先ほどまでの彼との会話を、ずっと頭の中で反芻している。
──今、割と良い感じで話せたんじゃないですか?
自分で自分に問い掛ける。
──悪くない。
──ですよね!
私の中の私たちが、心の会議室で報告会を行っている様子が浮かぶ。
──これは、ある意味では、目標達成なんじゃないですか? 『素直になりたい』って言う……。
──甘い! 今は、話す要件があったから、仕方がなく話せただけ! 明日の2人になった様子を、思い浮かべてごらんなさいな! 話題も無く、ただ無言で過ぎていく空間……。ああ、怖いったらない!
この子だ。
私を素直にさせないのは、きっとこの子が怯えているからだ。
自分の内側も見えてきた。
そう思ったところで突然スイッチが入れ替わり、妙に冷静になった。
「何、今の…………」
私は一体、何が見えていたんだろう。
いろんなタイプの私が、何人も居た。
こわ……何あれ。
眉間を押さえる。
疲れているのかもしれない。
やっぱり諦めずに、早く仕事に切りを付けて、ちゃんと吾妻さんのカウンセリングに行こう。
そして、ちゃんとすっきりして帰ろう。
せっかく「良かった」と思える出来事があったのだから。
******
無事に仕事は終わり、社内に最近出来た吾妻さんのカウンセリングルームへ、駆け足で向かっていた。
息を切らして、ようやく辿り着いた目的の部屋の扉をノックした後、ドアノブを回す。
「ごめんなさい……! 遅くなりました……!」
そう、今日分の業務は無事終えたのだが、残念ながら、20分程遅れてしまっていたのだ。
それも、連絡すらも入れずに。
仕事に没頭してしまっており、気付いたら、約束の時間を10分も回っていた。
それから慌てて、吾妻さんの元へやってきた。
失礼なことをしたと、反省している。
しかし、それにも構わず、吾妻さんは笑顔で私を迎えた。
「お仕事、お疲れ様です。お気になさらず」
「すみません……」
「大丈夫。じゃあ、時間も勿体無いし、早速カウンセリング始めようか」
「はい……」
吾妻さんが椅子をひき、私をそこへ促す。
「ちなみに、前回お話した通り、遅延があったとしても、カウンセリングの延長は出来ませんので、その点ご承知おきを」
「はい。それは、分かっています」
「ちなみに……。先に一つだけ、質問させてもらってもいい?」
おそらく私の記録などが記されているファイルを準備すると、その手を止めて、改めて私に向き直る。
「はい。何でしょう?」
「あれから例の女の子とは、特に何も無い?」
『例の女の子』ユウくんに好意を寄せていて、私を敵視している子。
ユウくんとは同じ部署のため、向こうで何かが起きていても、察することは出来ない。
少なくとも、私とはあれから、一度も関わり合いは無い。
「はい。今のところ、会うこともありません」
私が答えた後、吾妻さんは安堵したようで頷く。
「そっか。それなら良かった。では、前回話してもらった内容から、何か変化はありましたか?」
「はい。聞いてください……!」
「お、何。急に元気になって」
吾妻さんは、少し引き気味だ。
失礼な、と私の中で多少は苛立ちを感じたが、それよりも聞いて欲しかった。
だから、つい前のめりにもなる。
「明日、夜ご飯の約束をしました。それも、私の方から」
「すごいじゃん。素直に言えたんだ?」
「何とか……ですけど」
「それでも、言えたってことが成果だ。もう変化が現れるのは、みさおさんの意思の強さだと思うよ」
「……そうなんでしょうか」
「そうさ」
「ありがとうございます……」
この年齢になって、こんなに褒められることってない。
とても、こそばゆい。
「その中で浮き彫りになったこともあって……」
「浮き彫りになったこと?」
「はい。今回、言えたのは、誘うという目的があったからで。でも、実際に2人きりになったら……きっと、また沈黙で終わってしまいそうで。いつもそうなので……」
「目的があれば話せるって、自分で気付けたんだね。デートは基本、沈黙が多いの?」
「そうですね。2人とも、口下手なので」
「口下手、か……」
吾妻さんは顎に手をあて、考えてくれている。
どんなことを考えているのか、それも読み取れない。
一緒に考えてくれようとしているのなら、私の持っているヒントを晒して、自分の理想に近付けるのなら。
「彼は、仕事だと饒舌で雄弁らしいんです。それを聞いたとき、スイッチのオンオフが出来る、要領の良い人なんだなぁ、って思いました」
「スイッチのオンオフが出来る人……みさおさんと居るときは、オンとオフ、どっちだと思ってる?」
「完全にオフです」
「そう」
吾妻さんはニコニコしている。
薄気味悪い、と言ってしまったら、怒らせてしまうだろうか。
せっかく、力になってもらっているのに。
そんな下らないことを考えている間にも、吾妻さんは微笑み続けている。
そして、こんなことを言った。
「完全にオフ、ってことはさ。彼は、みさおさんの前ではリラックスしてる状態ってことだと、俺は思ってるんだけど……どう思う?」
それを言われた私はというと、体が一瞬にして強張る。
動揺している。
──話題が無くて、気まずくて、居心地が悪いと思っていたのは、私だけだった?
ユウくんは会話が無くても、それで良かったのなら、また私が1人で空回りしていたということになる。
あくまで、吾妻さんの憶測に過ぎないのだから、実際にユウくんがどうなのか、気になるところではあるけれど。
「リラックス……してくれてるんですかね……」
「それは、みさおさんだけが、確かめられることだよ」
吾妻さんは、くすりと笑う。
その吾妻さんの表情を見ているだけなのに、心が穏やかになる。
でも、そうは言っても、やっぱり少しずつでも良いから、言葉を交わしていきたい。
だって、私たちは付き合い始めて、まだまだ間もない。
長年の付き合いなら、流れる静かな時を2人で過ごすのも良いかもしれない。
だけど、趣味や好きな食べ物、嫌いな食べ物に誕生日、それどころか彼の性格の本質もあやふやなままで。
お互いに何も知らない「初めまして」の状態のままじゃ、いけないと思うから。
「……分かりました。その辺りも、確かめられるくらいになります」
「うん」
「でも! まずは私、彼のこと何一つ知らないので、話しながら知っていくことが大事だと思っていて……」
「何一つ……?」
「はい。だから、お話の仕方を、教えていただけませんか」
私が意気込んで言ったのに、吾妻さんは「え」と声を漏らす。
そして、くつくつと笑い出した。
「馬鹿にしてます?」
「や! してない! ごめん、ごめん。みさおさんって、本当に時々、面白い発言するよね! 壮の店とかでも」
吾妻さんは涙を自分の指で拭いながら、息を整える。
「ちなみに、会うのはいつ?」
「明日の夜です」
「嘘! 明日?!」
「はい」
「うーん。これまた、急だなぁ。俺、教えるのは、あんまり得意じゃないんだよな。そうだなぁ……」
吾妻さんが、思った以上に悩んでいる。
そういえば、一番初めのインテーク面接だか何だかのときに、吾妻さんの説明の中にあった吾妻さんの主とする心理療法。
『相談者自身の解決していく力を信じること』
『俺がアドバイスをすると言うより──』
だからか。
私、今、教えていただけませんか、なんて言ってしまった。
「あの……」
「だいたい普段は、どんな感じ? 前回、夜ご飯行ったときとかでもいいよ」
何を言うか決めてもいないくせに、私が出した声と、吾妻さんの言葉が重なる。
「俺も状況を把握したいので、出来るだけ詳しく教えてもらえると、有難いんだけど」
仕様が無くもないかもしれない、それでも、親身になってくれる吾妻さんには本当に感謝だ。
普段は、気に障る人だけど。
カウンセラーという仕事でなら、こんなにも親切な人だ。
「毎回、とにかく沈黙が多いです。あと、注文は彼の好きなものを任せています」
すると、吾妻さんは「へぇ」と言って、何かに驚いていた。
「みさおさん、お酒大好きじゃん。飲み物とかも、彼氏におまかせなの?」
「飲み物は、だいたいウーロン茶一択です」
「ええ……嘘だぁ」
「何ですか、その反応。彼の前で、悪酔いしたくないんです」
「いやいや。悪酔いなんてしないって。絶対、お酒強いでしょ。壮のところ行っても、ずっと飲んでるし。俺の勧めた鉄板焼き、一回も食べてくれないじゃん! あれ、めちゃくちゃ旨いのに!」
「あ。確かに、前にも言ってましたね」
「本当に旨いから!」
「わかりました。次は絶対食べます」
「言ったよ、今。『次は絶対食べます』はい! 言質を取りました!」
純粋に楽しくて、笑ってしまう。
どうして、吾妻さんとなら、これ程まで素直になれてしまうんだろう。
本当に不思議。
「今のみさおさん、生き生きしてるね」
「え」
「会話、弾んだね」
吾妻さんが、先程までのおふざけから、打って変わって優しい口調で言う。
──本当だ。
自分自身のことであるのに、他人に言われて初めて気付く。
あまりの驚きに、吾妻さんを見る。
「今の会話で、気づいたことはある?」
これだ、吾妻さんの療法とは。
私自身の解決する力を信じてくれて、サポートしてくれた。
自然にそういう方法へ、いつの間にか誘導されていたんだ。
「吾妻さんが話を振ってくださったから。あ、まさか今の会話、演技してくださったんですか……?」
すると、吾妻さんは目を見開く。
「いや、冗談なしで今のは演技じゃないよ! だって、壮の店のこと話せるのは、みさおさんだけだし」
「え」
不覚にも、ドキッとした。
私だけ、というところに思わず、反応してしまった。
違う、違う。
そんな意味なんかじゃない。
可笑しな自分の気持ちに、振り回されている。
私が私に振り回されていても、吾妻さんには一切関係の無いこと。
吾妻さんの話し方のレクチャーは続く。
「自分の好きなことを、まず相手に伝えるのも一つの手かもね。鉄板焼きに対して、みさおさんみたいに肯定的な人もいれば。「嫌い」って否定する人もいる。否定されたら、みさおさんなら例えば、何て返そう?」
「え……もう、そこで会話、終わっちゃいます」
私の答に、チッチッチッと口で鳴らしながら、人差し指を左右に動かす。