・
月曜日、私は教室よりも先に、準備室に向かっていた。その手には、先生へのお弁当を持って。
これをお礼だと渡したら、先生は拒むだろうか。だけど、先生に昨日たくさんもらってしまったので、何かしらのお礼をしないと味が悪い。少なくとも私は、そう思ってしまう。
手作りなんていっても、私はあまりレパートリーを持っていない。料理の全権はお母さんが握っているからだ。
だからこのお弁当を作る際には、日本のお母さんの力を借りた。そう、あの有名な料理サイトである。私は朝から文明の進歩の素晴らしさを感じていた。
階段を上って、三階に着く。理科準備室は、正直立地がかなり悪く、大半の理科教師__もっと言うなら先生以外はみんな職員室にいる。
だからこそこの間、ああも堂々と私に告白できたのだろうけど。
こんこん、とドアをノックする。返事はない。
「まだいないかな」
ドアノブをひねってみるが、やはり開かないのでまだ来ていないのだろう。
昼休みにでも来ようと思い、踵を返そうとした、その時。
「ん……おはよう、レイ」
眠たげな先生の声が耳にかかった。驚きすぎて固まってしまう。
「ああ、今開けるから待ってくれる?」
白衣のポケットから鍵を取り出すと、先生は固まっている私の後ろからドアを開けた。
こんなに驚いたのは、テレビをつけたらホラー映画の怖いシーンだった時以来かもしれない。心臓がばくばくしている。
先生はそんな私をよそに、準備室に入っていく。
「あー、涼しい。ここはちゃんとクーラーついてるから、癒されるなあ」
確かに廊下の熱気と比べたら、準備室は天国のような感じだった。私もようやく落ち着いて、軽く息を吐く。
これを渡したら、早く帰ろう。
「あの……先生」
そう呼ぶと、先生はどこか不機嫌そうに私を見た。
「昨日みたいに、彼方さんとは呼んでくれないんだ?」
「……ここは学校ですので、それは流石に」
「二人きりなのに?」
思わず言い淀んだ私を、先生は面白そうに見ている。この目は、捕らえた獲物をどう食べようか考えている時の目だ。
即ち、危険色。
「レイ、君が僕のことをどう思っているかは置いとくけど、好きな人に名前を呼んでほしいって思うのは普通だと思わない? __だから」
それから先生は、すっと私の耳元に唇を寄せて。
「彼方さん、って、呼んでみてよ。レイ」
かあっと顔が赤くなったのが、鏡を見なくても分かった。先生の馴染みやすい低音が、耳に残って、離れない。
先生は、私が名を呼ぶまで帰さないとでも言いたげな顔だった。
すうっと息を吸って、その倍をかけて吐き出す。早く帰るためには、先生の望みに従ったほうが早い。
「……彼方、さん」
だけど言ってから、やっぱり恥ずかしくなって、顔を背ける。心の中でなら、あのくまとしてなら、ちゃんと呼べるのに。
先生のことだと思うと、音に出してから、ただなんとなく後悔にも似た気持ちが湧く。
__穴があったらそのまま地殻くらいまで埋まってしまいたい……
一人悶々と考え込む私を、先生は、相変わらず面白そうに見て、それからそっと抱きしめた。
「あ、あの……」
「ちゃんとできたから、ご褒美」
「これはご褒美じゃないですよ」
そう訴えると、先生は納得したように笑みをこぼして、
「レイはキスの方が良かった?」
と、聞いてきた。慌てて首を振ると、先生は若干複雑そうな顔をして、離れた。
「一応、僕、彼氏のはずなんだけど」
「でも、それとこれは別なので」
大体私はまだ、先生の全てをまるっと受け入れられるくらい好きなわけではない。心の片隅__ミトコンドリアレベルで気になる程度だ。
「それで、結局何の用があったの?」
先生はハンガーにかかってた白衣に袖を通す。
「昨日はありがとうございましたっていう、お礼をしに」
それに、彼は驚いたように瞬きをして、苦笑した。
「レイはちょっと固すぎないかな。もっとこう……甘えてもいいと思うけど」
「……すみません」
「別に謝らせたかったわけじゃないよ。ただ僕がなんとなく、そう思っただけで」
そのまま置いてあるパソコンを立ち上げて、コーヒーメーカー__なんでここにそれがあるのかはあえて言わない__のスイッチを入れる。
お弁当を渡すタイミングを何となく逃して困っていると、先生はまだ用はあるのかと聞いてきた。先生は意外と視野が広い。
「あ……これ、昨日の、お礼です」
お弁当を渡すと、先生は素直に受け取ってくれた。
「ありがとう。お弁当?」
「そうです。でも、あんまり味は期待しないでください。普通の味なので」
「でも嬉しい。食べずにとっておきたいくらい」
「それは流石にやめてください……」
たまに思っていたのだが、先生のこういう発言はボケなのか本心なのかいまいちよくわからない。でもその実目は真剣だから、やっぱり本心なのだろうか。
「じゃあ、私はこれで」
「……ん、わざわざありがとう。また感想言うね」
私が出ていった準備室__
「お弁当、か」
先生が嬉しそうにそれを見ながら、笑った。
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月曜日、私は教室よりも先に、準備室に向かっていた。その手には、先生へのお弁当を持って。
これをお礼だと渡したら、先生は拒むだろうか。だけど、先生に昨日たくさんもらってしまったので、何かしらのお礼をしないと味が悪い。少なくとも私は、そう思ってしまう。
手作りなんていっても、私はあまりレパートリーを持っていない。料理の全権はお母さんが握っているからだ。
だからこのお弁当を作る際には、日本のお母さんの力を借りた。そう、あの有名な料理サイトである。私は朝から文明の進歩の素晴らしさを感じていた。
階段を上って、三階に着く。理科準備室は、正直立地がかなり悪く、大半の理科教師__もっと言うなら先生以外はみんな職員室にいる。
だからこそこの間、ああも堂々と私に告白できたのだろうけど。
こんこん、とドアをノックする。返事はない。
「まだいないかな」
ドアノブをひねってみるが、やはり開かないのでまだ来ていないのだろう。
昼休みにでも来ようと思い、踵を返そうとした、その時。
「ん……おはよう、レイ」
眠たげな先生の声が耳にかかった。驚きすぎて固まってしまう。
「ああ、今開けるから待ってくれる?」
白衣のポケットから鍵を取り出すと、先生は固まっている私の後ろからドアを開けた。
こんなに驚いたのは、テレビをつけたらホラー映画の怖いシーンだった時以来かもしれない。心臓がばくばくしている。
先生はそんな私をよそに、準備室に入っていく。
「あー、涼しい。ここはちゃんとクーラーついてるから、癒されるなあ」
確かに廊下の熱気と比べたら、準備室は天国のような感じだった。私もようやく落ち着いて、軽く息を吐く。
これを渡したら、早く帰ろう。
「あの……先生」
そう呼ぶと、先生はどこか不機嫌そうに私を見た。
「昨日みたいに、彼方さんとは呼んでくれないんだ?」
「……ここは学校ですので、それは流石に」
「二人きりなのに?」
思わず言い淀んだ私を、先生は面白そうに見ている。この目は、捕らえた獲物をどう食べようか考えている時の目だ。
即ち、危険色。
「レイ、君が僕のことをどう思っているかは置いとくけど、好きな人に名前を呼んでほしいって思うのは普通だと思わない? __だから」
それから先生は、すっと私の耳元に唇を寄せて。
「彼方さん、って、呼んでみてよ。レイ」
かあっと顔が赤くなったのが、鏡を見なくても分かった。先生の馴染みやすい低音が、耳に残って、離れない。
先生は、私が名を呼ぶまで帰さないとでも言いたげな顔だった。
すうっと息を吸って、その倍をかけて吐き出す。早く帰るためには、先生の望みに従ったほうが早い。
「……彼方、さん」
だけど言ってから、やっぱり恥ずかしくなって、顔を背ける。心の中でなら、あのくまとしてなら、ちゃんと呼べるのに。
先生のことだと思うと、音に出してから、ただなんとなく後悔にも似た気持ちが湧く。
__穴があったらそのまま地殻くらいまで埋まってしまいたい……
一人悶々と考え込む私を、先生は、相変わらず面白そうに見て、それからそっと抱きしめた。
「あ、あの……」
「ちゃんとできたから、ご褒美」
「これはご褒美じゃないですよ」
そう訴えると、先生は納得したように笑みをこぼして、
「レイはキスの方が良かった?」
と、聞いてきた。慌てて首を振ると、先生は若干複雑そうな顔をして、離れた。
「一応、僕、彼氏のはずなんだけど」
「でも、それとこれは別なので」
大体私はまだ、先生の全てをまるっと受け入れられるくらい好きなわけではない。心の片隅__ミトコンドリアレベルで気になる程度だ。
「それで、結局何の用があったの?」
先生はハンガーにかかってた白衣に袖を通す。
「昨日はありがとうございましたっていう、お礼をしに」
それに、彼は驚いたように瞬きをして、苦笑した。
「レイはちょっと固すぎないかな。もっとこう……甘えてもいいと思うけど」
「……すみません」
「別に謝らせたかったわけじゃないよ。ただ僕がなんとなく、そう思っただけで」
そのまま置いてあるパソコンを立ち上げて、コーヒーメーカー__なんでここにそれがあるのかはあえて言わない__のスイッチを入れる。
お弁当を渡すタイミングを何となく逃して困っていると、先生はまだ用はあるのかと聞いてきた。先生は意外と視野が広い。
「あ……これ、昨日の、お礼です」
お弁当を渡すと、先生は素直に受け取ってくれた。
「ありがとう。お弁当?」
「そうです。でも、あんまり味は期待しないでください。普通の味なので」
「でも嬉しい。食べずにとっておきたいくらい」
「それは流石にやめてください……」
たまに思っていたのだが、先生のこういう発言はボケなのか本心なのかいまいちよくわからない。でもその実目は真剣だから、やっぱり本心なのだろうか。
「じゃあ、私はこれで」
「……ん、わざわざありがとう。また感想言うね」
私が出ていった準備室__
「お弁当、か」
先生が嬉しそうにそれを見ながら、笑った。
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