(…あ……)


ーー穏やかな風に吹かれる黒コート。

すらりとしたその佇まいは、見惚れるほどカッコいい。


(…なんか、少しだけ気まずいな…)


昨日、彼を追い出したきり、一言も会話を交わしていない。つまり、シドの言葉の真意さえ、はっきり確かめられていないのだ。

一方、彼はいつものポーカーフェイスを貫いている。まさか、昨日のことは夢だったのだろうか。

無意識に首元に伸びる腕。

やはり、彼の残した跡を触ると少し痛む。


「……あー、まずい。包帯買い忘れてたな。」


「え?」


その時、ふとランディが鞄の中を見て声をあげた。

ちらり、と私とシドを見つめた彼は、にこりといつもの笑みを浮かべて続ける。


「ごめん、ちょっと買いに行ってくる。少しだけ待ってて。」


「えっ?ら、ランディ?」


呼び止める声も受け流し、ひらひらと手を振って歩き出す彼。

突然二人きりになり、何となくそわそわした雰囲気が二人を包んだ。

そっ、と町の方を見るが、ランディはまだ戻ってくる気配がない。


(…い、今しかない…)


「あの、シド…!」


「!」


意を決して声をかけると、彼はふっ、とこちらを見下ろした。

綺麗な碧眼からは、何の感情も読み取れない。


「…き、昨日のことなんだけど…」



そこまで言いかけて、はっ、とした。

この後、なんて言葉を続ければいいんだ?


“どうして、タンリオットのお嫁さんになることに怒ったの?”

“どうして、(首に)キスなんてしたの?”


山ほど出てくる言葉は、全て口に出すのが恥ずかしい。

私は、その先を期待してしまっている。

しかし、私だけの思い違いだったらどうしよう。


「…なんだよ。」


低く聞こえるシドの声。

思わず言葉を詰まらせた私に、すっ、と目を細める彼は、私の問いを待ってくれているようだ。

落ち着いた様子のシド。

きっと、今、何を言ったとしても、彼は誠実に返してくれるだろう。


「…昨日言ってたことって、どういう意味…?」


“俺はもう、お前に血も心も奪われてんだ!俺だって、お前を欲しくなって当然だろ!”


あの言葉は、何よりも私の心を震わせた。

無愛想で一匹狼のシドが初めて語った本音が、嬉しかった。

すると、数秒の沈黙の後、シドは小さく呟く。


「俺はお前に血をせがまれたら、絶対に断れない、ってことだよ。」


「…?」


「…全部言わなきゃ、わかんねえのか?」


すっ、とわずかに屈むシド。

至近距離で交わる視線に、胸が鳴る。


「ーー俺はお前に惚れてるから、全てを差し出す覚悟がある、ってこと。…覚えとけ。」


(!!)



呼吸さえ、忘れた。

信じられない。

これは夢か。

自分に都合のいい夢でもみているのか。


ーー頬を撫でる風。足の裏に伝わる大地の感触。

その全てが、現実であることを告げている。


(夢じゃ…、ない。)


「シド…、私…っ…!」


「っ!今言うな、ばか!」


もが!、と私の口をシドの手が塞いだ。

驚きに目を見開くと、彼は複雑な表情でぼそっ、と呟く。


「…どーせ、“私はタンリオットの嫁になる”って言うんだろ。分かってるから、まだ言うな。」


「…!」


はっ!と、した。

今、私の頭の中にタンリオットの存在はカケラもなかった。考えていたのは、シドのことだけ。

目の前の彼だけが、私の心を埋め尽くしていたのだ。


ーーつぅ…っ。


優しく私の頰に撫でるシド。

流れるように首筋に触れた彼の指に、どきん!とする。

戸惑いと緊張の中、彼を見上げると、わずかに熱を帯びた綺麗な碧の瞳が、まっすぐ私を映していた。


「…せめてこの“跡”が消えるまでは…“俺のもの”だって思わせてくれてもいいだろ…?」


「!」



ねだるような甘い声。

こんなシドを、私は知らない。

隠しきれない彼の熱が、その口からこぼれて私の心に染み渡る。


ーー“ダメ”

…なんて、誰が言う?


そんな顔されて、断るはずがないじゃない。

ずっと、そうしてほしいと思ってた。

私の全てを貴方のものにしてくれたっていいのに。…欲を言えば、“このままずっと”。


ーーくしゃ。


照れたようにやや乱暴に私の髪を撫でたシドは、ふいっ、と私から顔を背けた。

それ以上何も言わない彼を、もどかしげに睨む。


ーーこの男は、ずっと“こう”だ。何にも執着しないような孤高の人でいて、さらっ、と私の心を盗んでいく。


(…ずるいなあ。…敵うはずがないよ。)


「ーーあー、二人ともおまたせ〜!ごーめん、よく見たら包帯鞄の奥にしまってあった〜!」


街の門からにこやかに歩いてくるランディ。

…本当は、気を使ってくれたのだろうか。

きゅるん、と笑う彼は、シド以上に読めない。


「ーー行くぞ。」


シドが、全てを見透かしたようにランディへ声をかけた。

「はぁい。」と続くランディは、相棒のレイピアを腰に下げる。


目指すは東。

関所を超えた樹海の暗雲は晴れている。


ーーこうして、穏やかな風に背中を押され、私たちは“旅の終着点”へ歩き出したのだった。


**


「霧が晴れたとはいえ、相当道が入り組んでいるみたいだね」


東の関所を再び訪れた私たち。

国境の門番は「まさか、本当に通行許可状を持ってくるとはなあ…!」と驚いていた。

彼に見送られながら門の先に進むこと数十分。

ずいぶん長い間人の出入りがなかったらしい樹海は道という道がなく、木々をかき分けて進む他ないようで、想像よりもその道のりは険しかった。

私は、ぽつりと呟く。


「それにしても…。いくら濃霧が立ち込めていたとはいえ、誰一人として城に近づけなかったなんて変だと思わない?」


「確かに…。偶然、なんて可能性は低いかもしれないけど、一人くらいはローガスの居城にたどり着いてもおかしくないと思うけどね」


私がふと口にした疑問に、ランディは腕を組んだ。

持ってきた方位磁針も針がめちゃくちゃに振れていて、元来た道すら危うい。

一度立ち入ったら二度と出て来れないなんて言われても不思議ではないが、この樹海にはそれ以上の何かがある気がした。


その時、ふと、シドが足を止める。

彼につられて立ち止まった私とランディは、きょとんと先頭の彼を見上げた。


「どうしたの?」


「城でも見えたのかい?」


しかし、ひょいっ!と彼の背から顔を出し、目の前に視線を向けた瞬間。

私たちの目に飛び込んできたのは、身の毛もよだつような光景だった。



乱立する木々の向こうに光る鋭い牙。

血に飢えた赤い瞳が獲物をとらえたようにこちらを見つめている。


「…囲まれたか」


「だね。早速お出ましとは、想像よりもずっと危険なエリアらしい」


銃とレイピアを構えるシドとランディ。

現れたのは数十体のスティグマ。ローガスが放った刺客だろうか。

ぐいっ!と引き寄せられる腕。

真剣な表情のシドが短く指示を飛ばす。


「ランディ、お前は遠方のスティグマを狩れ。俺はここから動かずに、近づく敵を狙撃する。」


無言で頷いたランディはわずかに瞳の色を赤く変えた。彼の体に流れる純血が高ぶっている。

臨戦態勢の中、シドが素早く囁いた。


「レイシア。お前は俺から離れるな。怖かったら目ぇつぶってろ」


彼の黒コートに、ぎゅっ!としがみつく。

拳銃の黒い銃口が、まっすぐスティグマに向けられた。


パァン!!


開戦の合図のごとく鳴り響く銃声。

一気に飛びかかってきたスティグマは、全方位を囲んでいる。

地面を蹴って斬り込んだランディ。流れるような剣さばきは一つの無駄もなく敵を貫いた。

しかし予想以上に数が多い。次々と灰と化していくが、その勢いはとどまることを知らないようだ。


乱れ飛ぶ弾丸。

仕留めていく最中、シドがわずかに目を細めた。その視線の先にあったのは、銃に込められた魔法石。


(シド…?)


思わず彼を見上げたその時。

切迫したようなランディの声が森に響いた。


「シド!後ろ!!」


はっ!とした瞬間、振りかざされる爪。

暗闇からの奇襲に一瞬反応が遅れる。

倒れる前方の敵。

背後から迫るスティグマ。

銃を構えるモーションが間に合わない。



(やられる…っ!)


思わず体が強張り、シドが目を見開いた

その時だった。


目の前に飛び散る血しぶき。

スローモーションに見える残像。

痛みを覚悟していた私だが、倒れたのは私に襲いかかろうとしていたスティグマだった。


はっ!とした瞬間、その背後から現れたのはピアスの青年。

聞き慣れた低く艶のある声が耳に届いた。


「相変わらずスティグマは躾がなっていないな。どうしようもない」


「お兄ちゃん…!?」


予想外の救世主に言葉が出ない私。

彼の背後に続くのは、ノスフェラトゥのヴァンパイア。暗闇に浮かぶ白い軍服が彼の率いる戦闘部隊だと理解するのに数秒かかった。


「ルヴァーノ、お前どうしてここに…!」


「樹海の濃霧が晴れたと遠征先の部下から連絡があったからな。関所に通達して進軍させてもらった」


本当にノスフェラトゥは抜かりない。

統率された部隊には隙がなく、居城周辺の異変をいち早く察知した彼らは即座に装備を整えて攻め込んできたらしい。


「さて。こんなところまでレイシアを連れてきたお前を一度ぶん殴りたいところだが…。今はじゃれ合っている場合ではないな」


無言で視線を交わすシドと兄。

彼らの見つめた先には、一歩も怯む様子のないスティグマが迫る。

ルヴァーノの凛とした幹部の声が樹海に響いた。


「右翼部隊は遠方の敵、後方部隊はシドの援護に入れ!」


目を見開くシド。

ちらりと黒コートの彼を見つめた兄は、低く告げる。


「不本意だが、一時休戦だ。…その弾丸。俺の部下に当てたら噛み殺す」


ふっと小さく笑みを返すシドに、わずかに口角を上げた兄も拳を構えて叫ぶ。


「残りの奴は俺について来い!スティグマに堕ちた同胞は、残らず天に還せ!」


「「「おおおおっ!!!」」」


一瞬で深紅に染まる瞳。

目にも留まらぬ速さで大地を蹴ったルヴァーノは、迫り来るスティグマの群れへと飛び込んだ。

戦闘能力の格が違う。

私と別れた後の兄が十年の間に培ったものは、計り知れないほどのものだった。


その時、体に柔らかな布がかけられた。

はっ!として見上げると、綺麗な薔薇色の瞳と目が合う。


「エリザさん…!」


「怪我はない?サザラントの事件以来かしら」


見惚れるほど綺麗な彼女が私を優しく撫でた。

私の顔色にほっ、と胸をなでおろしたエリザは、私を庇うように立つシドに向かって素早く告げる。


「ローガスの居城はこの先よ。ここらのスティグマはノスフェラトゥに任せて、団長に続いて先を急ぎましょ。」


「あぁ…!」


行く手を阻もうとするスティグマを、兄の部下たちが次々と蹴散らしていく。

ひらけた道を駆け出すと、後方から合流したランディが目を輝かせて兄に声をかけた。


「ありがとうございます…!まさか、ここで会えるなんて思ってもみませんでした…!」


「あぁ、俺もだ。レイシアとランディくんが健在で安心したよ。…まぁ、厄介なのはこの先だけどね」


兄の言葉に眉を寄せたその時。目の前に大きな壁が現れた。

思わず足を止める五人。

高くそびえ立つレンガ造りの壁は、よじ登ったり破壊して通れるものではないらしい。


「これはローガスの居城を囲む城壁。すなわち、突破すれば大将は目の前ってことだ」


兄の言葉に、ぞくり、と震える。

ついに、ここまで辿り着いた。

相当高ぶっている様子の仲間たちに目をやると、何かに気がついた様子のランディが、そっ、と口を開く。


「城壁の門の前に、誰かいる」


はっ!とした。

確かに、頑丈な門の前には人影が見える。

しかし、恐らくこんな樹海の中にいるのは“ただの人間”ではない。どうやら、ローガス本人でもないらしい。

すると、目を細めた兄が低く呟いた。


「今まで、国から討伐を任命された軍人や腕っ節に自信のある男が何人も出向いたが、皆、あの門の先から消息が途絶えた」


「え…!」


「言っただろう?厄介なのはこの先だって」


未知なる恐怖に思わず足がすくむ。

しかし、怯む様子を見せないシドは力強く足を踏み出した。


「もう、後には引けねえだろ」


もはや、彼を動かすのは国からの任務だけではない。

私やランディ、ローガスに復讐を誓うルヴァーノ。その全ての思いを背負って挑んでいるのだ。