「私、綾瀬さんには本当に幸せになってもらいたいです。根は素敵な人だってわかってるから」
社長と同じようなことを穏やかな調子で口にされ、かすかに心が揺れる。
きっと、出まかせではないのだろう。でも、彼女は私がずっと想っていた人を奪っていったライバルだ。エールを素直に受け取ることはできない。
「そらぞらしいこと言って、好きな人を横取りした自分の罪悪感を軽くしたいんでしょう」
プライドも手伝ってキツい物言いをしたにもかかわらず、倉橋さんはあっけらかんと答える。
「それもあります」
「正直ね」
あっさり認められて、私は脱力した。ついでに笑いまで起きてくる。
はっきり言う人は嫌いじゃない。というか、なぜか憎めないのだ、この倉橋さんは。恋に負けた相手なのに。
それは彼女の性格がいいからというだけでなく、私が抱いていた社長への恋心はそこまで大きなものじゃなかったからかもしれないと、今になって思う。
「ねぇ、プライベートの泉堂社長って、会社での姿とは少し違うんじゃない? 裏の顔を持ってる気がするんだけど」
少々話を変えて尋ねてみれば、倉橋さんは苦笑を浮かべる。
「やっぱり、綾瀬さんは感づいてましたか……」
「そりゃあ、ずっと近くで見てたからね。あなたよりよっぽど長い間」
「すみません」
嫌味を口にする私に、彼女はすぐさま九十度のお辞儀をして謝った。こういうところが面白い。
私は倉橋さんほどプライベートの社長については知らないが、以前から彼には裏がありそうだと薄々気づいていた。
いつもの紳士的で完璧な態度は作られたものじゃないんだろうか、となんとなく思うことがあったのだ。自分がそうだから勘が働いたのかもしれない。
「社長には似たものを感じるのよね。きっと普段の自分を偽っているんじゃないかって。そんな彼なら素の私も受け入れてくれるかもしれない、そう思ったから振り向かせたくて必死だった」
前方に見えてきた本社に目線を向けながら、誰にも話さなかった本心を打ち明ける。自然と話したくなって。
「でも、こんなに胸がギューッと苦しくなったり、気持ちのコントロールができなくて、自分が自分じゃないような感覚に陥ることはなかったわ」
耀を好きになってわかった。今回の恋心は、これまでのものとは重さが違うと。
もどかしい気持ちを吐き出すと、幾分かスッキリした。そんな私に、倉橋さんは眼鏡の奥の瞳を優しく細めて言う。
「加々美さんは違うんですね」
そう、耀は違う。最初から私の中身を見て、受け入れてくれている。彼ほど器の大きな人が、この先他に現れるとは思えない。
思いを巡らせていた私は、再び倉橋さんがこちらを見つめていることに気づき、はっとした。
「恋する綾瀬さん、すごく可愛いですよ」
にっこりと無邪気に微笑まれ、羞恥心が込み上げる。
そういうこと言われるの慣れてないんだってば……というか、なんで倉橋さんに語ってしまっているんだろう。
若干の苛立ちにも似た感情も湧いてきて、私は完全なる愛想笑いを作り、トゲを忍ばせた言葉を突き刺す。
「私のことばかり気にかけていないで、もっとご自分の色気を出す研究でもなさったらいかがですか?」
「あっ、ヒドい……」
ショックを露わにする彼女に構わず、私はさっさと先を急ぐ。それでもへこたれずについてくる彼女を、やっぱり憎めないなと思いながら。
あれから一週間、耀への恋心を自覚したとはいえ、そこから先に進むような行動はなにも起こしていない。
とりあえずまた一緒に食事にでも行けばいいのだろうけれど、急に私から誘ったら変に思われるんじゃないかと、余計な考えが邪魔をしてなかなか踏み出せないでいる。
社長にアタックしていたときは結構積極的だったはずなのに、なぜ今受け身になってしまうのだろうか。
お風呂から上がり、洗面所のスタンドに並んだ色違いの歯ブラシを眺めながら、小さなため息をついた。最近ずっとこんな調子だ。
濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、テーブルに置いていたスマホがメッセージを受信した音を奏でる。それを見た途端、あまり浮かなかった私の顔が一気に明るくなる。
【今週の金曜日、仕事が終わったらご飯食べに行かない?】
タイミングを見計らったかのような、耀からのお誘いだった。
同じことを考えていたというだけで、なんだか無性に嬉しくて。あぁ、私は本当に恋に落ちたんだな、と実感する。
ひとりなのをいいことに、思いっきり口元を緩ませ、OKのスタンプをポンと送信した。
久しぶりの本気の恋に悶々としたり、胸をときめかせたりしつつも、業務はしっかり全うしなければならない。
耀との食事を二日後に控えた今日は、製造機器メーカー“ヤツシマ機械工業”の方々との接待だ。
私たちの工場で使用しているチョコレート製造マシンを新たに導入しようという話になっているため、工場長も同席する。今回はセッティングする側ではないので、いくらか気が楽だ。
冷たい小雨が降る中、三人で料亭に向かい、予定の午後六時の五分前に到着した。店の入り口で、先方が傘を差してお出迎えしてくれている。
あちらも同じく三人で、全員男性だ。その中の、一番小柄で優しげな雰囲気を醸し出す社長が、「あいにくの雨の中、お越しいただいてありがとうございます」と、私たちに頭を下げる。
こちらも挨拶を返し、他の男性方に視線を移した瞬間、私は目を疑った。仕事とはまったく関係ない場所で会ったことのある人物がいたから。
細すぎず太くもない体型、ワックスで固められた髪、三枚目俳優のような顔立ち……。見間違いじゃない。あろうことか、居酒屋でひと悶着起こした既婚オジサマだ。
う……嘘でしょう!? あのゲス野郎が接待の相手だなんて!
確かに、あのとき『機械の製造メーカーで働いている』と言っていた気がする。でも、まさかヤツシマの社員で、うちが関わることになるとは思いもしなかった。
信じられない気持ちで硬直していると、彼もこちらを向く。目が合った瞬間、ヒュッと息を呑んで視線を逸らした。
一瞬だったが、彼もわずかに驚きの表情をしたのがわかった。部屋に移動する間もひしひしと視線を感じるし、確実に気づいているだろう。
これはマズい……非常にマズい! もしも、あの夜私が失礼な態度を取ったことをバラされてしまったら、信用問題に関わるもの。
でも、それはセクハラまがいのことをした向こうも同じはず。大事な接待の場だし、空気を乱すようなマネはしないだろう。
冷や汗を掻きつつも、大丈夫だと自分に言い聞かせ、落ち着いた和の雰囲気が素敵な個室に入る。食事の前に、まずは名刺交換だ。
私と彼の番になると、ものすっごく嫌だけれど、しっかりと向き合う。彼も気まずそうにするかと思いきや、意外にも平静な笑みを浮かべている。
「製造本部長の長沼 正(ながぬま ただし)と申します」
彼は私に名刺を差し出し、そう名乗った。私が事前にやり取りしていたのは営業本部長だったから、この人の存在に気づかなかったのも無理はない。
女性の扱いに関しては名前とは正反対ね、と胸の中で毒づき、私もなんとかいつもの秘書スマイルを貼りつけて名刺を渡した。
それからは、長沼さんとは極力目を合わさずに他の皆さんの話と食事に集中した。お酌もしたくはなかったが、こればっかりは仕方ない。
予想通り、何事もなく会は進み、最後にお茶が出される頃合いを見計らってお手洗いに行くために席を立った。
「はぁ、疲れた……」
洗面所の鏡に映る自分と目を合わせ、ぐったりしながらため息と共に本音を吐き出す。こんなに気を遣った接待は久しぶりかもしれない。
それもあと少しの辛抱だ。さすがに長沼さんもあの件には触れてこないし、このまましらばっくれて乗り切ろう。
ぺちぺちと軽く頬を叩いて気合を入れ、背筋を伸ばしてトイレを出た。
しかしその直後、前方から長沼さんがこちらに向かって廊下を歩いてきたため、ギョッとして挙動不審になる。
ちょっと、なんで来るのよ! トイレか、もしくはお会計? どっちにしろ一対一にはなりたくないのに!
あたふたしてもう一度トイレに逃げ込もうかと思ったが、それを阻止するかのように話しかけられてしまう。
「やぁ、まさかこんなところで再会できるとはね、綾瀬さん」
以前も見た胡散臭い笑みを向けて、距離を詰めてくる彼。
この人の前では気品ある姿を取り繕っても意味がないので、仕方なく冷めた笑顔と言葉で応戦することにした。
「長沼さん、その節はどうも。悪縁というものは切れないものですね」
「悪縁? 俺はよかったと思ってるよ。あの日、俺に恥をかかせた責任を取ってもらうことができそうだから」
社長たちの前で見せていたものとは違う顔を覗かせる彼に、私は眉をひそめる。
「責任って──」
「今度、改めて食事をしに行こう。ふたりで」
なにを言われるのかと思えば食事の誘いで、呆れ返った私はぽかーんとしてしまった。
この間あんなことがあったばかりだというのに、どういう神経をしているのだ、この男は。
「奥さんがいらっしゃるくせに、まだ私を誘うんですか? 学習能力のない部長様だこと」
「妻との仲はすでに冷え切っている。それに、君のそういうところに逆に火をつけられるんだよ」
遠慮なく悪態をついたにもかかわらず、長沼さんにはまるで効いていない。むしろ楽しそうにしていて、まさに糠に釘状態だ。
私の毒舌に火をつけられるって、まさかドM?と勝手に気持ち悪い想像をしていると、彼はさらに接近してくる。そして、嘲るような笑みを浮かべた。
「毒を隠し持っているのに、上辺は魅力的で人を惹きつける……まるで魔女だな、君は」
決して褒めてはいない言葉を投げられ、私は彼に険しい視線を突き刺す。魔女と言われて怒ったわけではなく、ただただこの男が不快で。
しかし、私の睨みなどものともしない彼は、私の耳に顔を近づけて強引に約束を取りつける。
「金曜日の夜でどうかな。俺に暴言を吐いたことをバラされる度胸があるなら、断ってくれていいぞ」
……卑怯な男。断れるわけないじゃない、取引にも悪影響を及ぼしかねないというのに。
私の本性を暴かれるだけならまだしも、万が一名誉棄損だなんて難癖をつけられでもしたら、会社にまで迷惑をかけてしまう。そんな事態は絶対に避けたい。
反論できず、ぐっと拳を握って唇を真一文字に結ぶ。私の様子に、長沼さんは満足げに口角を上げ、「また連絡する」と告げて横を通り過ぎていく。
遠ざかる足音を聞きながら、私は大きなため息を吐き出してうなだれた。