「私、魔女みたいだって言われたのよ。本当にそんな女でいいの?」
長沼さんに言われた、あながち間違いでもない嫌味を思い出して問いかけたものの、耀はまったく意に介さない様子で笑う。
「愚問だね。だって……」
言葉が途切れ、彼の顔が近づいてくる。
首筋を唇で軽く吸い上げられ、その濡れた感覚とくすぐったい刺激で、思わず「んっ」と声を漏らしてしまった。
耀は身をよじる私を見下ろし、まるで花を愛でるような笑みを浮かべる。
「ほら、僕に組み敷かれてる君はこんなにも可愛い」
甘すぎるひとことに、急激に羞恥心が煽られる。私たちの関係が子供の頃とは逆転し、友達を越えたことを改めて感じさせられて。
今、自分がどれだけ乙女な表情をしているのかを考えると、ものすごく恥ずかしくて、咄嗟に両手で顔を覆った。
「あ、あんまり見ないで」
「それ逆効果だよ。いつもとのギャップが可愛くて仕方ない」
耀はクスクスと笑って私の手をそっと退け、指を絡めながら唇を近づける。愛を確かめる口づけを皮切りに、おしゃべりはしばらくできなくなった。
濃密になっていくキス、熱く溶かされそうな愛撫、セクシーな表情──初めて五感で感じる彼のそれは、どれもが媚薬のように作用して、私はなすがままに乱れた。
素肌を重ね合わせてひとつになったとき、快感と悦びが全身を駆け巡る中、耀の吐息混じりの声がとびきり甘く囁く。
「好きだよ……なつみ」
初めて名前を呼ばれ、うっすら開けた瞳にじわりと涙が滲む。これだけで、天に昇れそうなほど幸せだ。
「……私も、大好き」
陳腐だけれど自分の想いを伝える精一杯の言葉が、自然と口からこぼれた。
これからは、もっと優しく、素直な気持ちを表そう。今みたいに、彼の幸せそうな笑顔をこの先もずっと見ていたいから。
重い瞼が自然と開き、まどろむ瞳にカーテンの隙間から差し込む柔らかな光が映る。
あれ、私いつの間に寝て……って!
昨夜のことを思い出した私は、ガバッと勢いよく起き上がった。まだ見慣れない部屋はしんと静まり返っていて、ベッドにいるのも私ひとり。
ぽかんとするも、素肌が露わになった背中が寒くて再び毛布に包まる。裸のままの状況からして、昨日の情事は夢ではなかったのだと安堵した。
しかし、耀はどこにいるのだろう。昨日は確か、心地よい疲れですぐに眠ってしまったのだと思うけれど、彼も一緒に寄り添って寝たはず。
愛しいぬくもりがなく、物寂しい気分で部屋を見回すと、時計が視界に入った瞬間目を見開いた。
「やっば、遅刻する!」
私は慌ててベッドから飛び出す。時刻は七時半。急いで準備をして出ないと、社長より前に出社することができない。
とりあえず昨日の服を着ていると、テーブルになにか置いてあることに気づく。私のものとよく似た鍵と、綺麗な字で書かれたメモだ。
【Akaruが寝かせてくれないので先に行きます。合鍵使ってね】
どうやら耀のほうが先に職場へ向かったらしい。彼の普段の出勤時間は私より遅いと聞いていたが、トラブルかなにかだろうか。
それにしても、この書き方からするとAkaruに呼び出されたのかもしれない。仕事だから仕方ないのは百も承知だ。だけど……。
「……なんか負けた気分」
初めて愛し合った翌朝に、幸せな余韻ごと彼を奪われて、なんとなく悔しくなる。しかも相手はAkaruだし。
ファンなのに少々嫉妬してしまうも、今はもたもたしている暇はない。急いで支度すると合鍵を握りしめ、彼の部屋を飛び出した。
一旦自分の部屋に戻ると、新しい服に着替えて顔を洗う。昨夜からなにも食べていないので、さすがにこれでは昼までもたないと思い、食パンをかじりながらハイスピードでメイクを済ませた。
走って満員電車に滑り込み、なんとかギリギリで間に合ったが、すでに疲れ切っている。走ったせいで髪も乱れているし、あとでまとめよう。
昨日の甘い出来事が嘘のようだわ……。私、本当に耀の彼女になれたのよね?
そう不安になるくらい、余韻もなにもなく慌ただしい朝だけれど、バッグの中には彼の部屋の合鍵が入っている。
これが私たちの関係が変わった証なのだと思えば、次第に心が穏やかになっていくのだった。
駅のトイレに入って髪を緩めのローポニーテールにしたあと、気を引きしめて本社へ向かう。
その途中、私は大事なことを思い出した。今夜は、まだ長沼さんと食事する予定になっていることを。
耀には行く必要はないと言われたけれど、本当に断ってもいいものだろうか。揚げ物の盛り合わせ並みにしつこいあのオジサマが、簡単に納得するとは思えない。
悩みつつも、バタバタしていたことを気づかせないきりりとした姿勢で、社員と挨拶を交わしながら秘書課に入る。普段より若干遅い八時四十分だが、まだ社長は出勤していないのでホッとした。
軽く社長室を掃除したあと秘書課に戻り、届いたメールやスケジューラーで社長の予定をチェックしていると電話が鳴り始める。
三コール以内に受話器を耳に当て、「おはようございます。サンセリール本社でございます」と型通りの挨拶をした直後、予想外の声が聞こえてきた。
『お世話になっております。私、ヤツシマ機械工業の長沼と申します』
「なっ、長沼さん!?」
驚いて、つい名前を復唱してしまった。電話の向こうの彼は、『あぁ、綾瀬さんか? ちょうどよかった』と、若干強張った声で言う。
一体なんの用事だろう。今夜のことを断るには、こちらもちょうどいいタイミングだけれど、ちゃんと切り出せるだろうか。
妙な緊張感を抱きながら耳をすませば、彼の口からまたしても予想外の言葉が飛び出す。
『今夜の食事の件だが……なかったことにしてほしい』
「えっ?」
決まりが悪いような調子で言われ、呆気に取られた私はフリーズした。
なかったことに……って、なんで? あんなに来させる気満々だったくせに。
『脅すようなマネをして、本当にすまなかった。金輪際、君とは仕事以外では関わらないと約束するよ』
さらに謝罪の言葉まで続けられて、拍子抜けしつつ眉をひそめる。急に身を引かれると、それはそれで不気味だ。
なにがなんだかわからないが、とりあえず長沼さんとの悪縁は切れそうなので、私も「いえ、こちらこそ失礼いたしました……」と、念のため低姿勢で謝って電話を切った。
食事がキャンセルになったのは万々歳だけれど、本当にどうしたんだろうか。
気になって仕方ないものの、間もなくして泉堂社長が出勤されたため、ひとまず意識を切り替えることにした。
社長室にて今日のスケジュールを確認し合ったあと、彼はこれから行う会議資料に目を通しながら言う。
「来月は香王商事の創立五十周年記念でしたね」
「はい。お祝いのお花ですが、趣向を変えてクリスマスツリーをお贈りするのはいかがでしょう?」
「あぁ、いいですね。あちらの社長はイベント事がお好きですから」
いかに先方に喜ばれるかを想像して提案したことに対して、いい反応がもらえると嬉しくなる。
「手配しておきます」と笑顔で返し、手帳にメモをとっていると、社長が資料を手にしたままじっとこちらを見ていることに気づき、一旦手を止めた。
「どうかされましたか?」
「違っていたらすみませんが……加々美さんといい進展があったのでは?」
探るような目で突然核心を突かれ、ギョッとする。まさかそんなことを言われるとは想定外で、手帳を落としそうになるほど動揺しまくる。
「っ、ど、どうして……!?」
「なんとなく、ですよ」
社長はあたふたする私に意味深な笑みを見せ、自分の首を人差し指でトントンと突く。
その謎の仕草に首をかしげる私をよそに、彼はすでに確信した様子で、「よかったですね。おめでとう」と祝福してくれる。
照れ臭さと奇妙さが混ざった複雑な感覚を抱くも、とりあえずお礼を言っておいた。
用を済ませて社長室を出たあと、彼がなぜ感づいたのかを考える。首をツンツンしていたけど、あれはなんだったのだろう。
不思議に思いつつお手洗いに寄り、鏡に映る自分の首をなにげなく見たとき、あるものに気づいてはっとした。首筋にうっすらと赤紫色の跡があるのだ。
これは、もしかしなくてもキスマーク……! 昨夜、耀につけられていたの!?
朝は、急いでいたから全然気づかなかった。髪をまとめたせいで、社長にも丸見えだったのだ。
恥ずかしすぎる……! これだけで気づく社長も社長だけど。見えるところにつけるな!って耀に説教してやらないと。
慌てて髪をおろし、愛し合った証と真っ赤な顔を隠して秘書課に戻る。
他の人にも気づかれていないかしら……とドキドキしながら、お抱えの花屋のサイトでクリスマスツリーを探し始めたとき、プライベートのスマホがメッセージを受信した。
名前を見てドキリとする。耀からだ。
【今日、仕事が終わったらネージュ・バリエに寄れる? 食事はキャンセルされたよね?】
想いが通じ合ったあとだとは思えない、甘さもなにもないメッセージ。
でも、その内容には引っかかりを覚えた。キャンセルされたことをすでにわかっているような調子なのはなぜだろうか。
いや、彼は昨日から食事を断っても大丈夫だと確信している様子だった。長沼さんが自分から電話してきたことにも、耀がなにか関係しているのかもしれない。
私もこの件についてはっきりさせたいので、【うん。行く】と端的に返事を送った。
午後七時半すぎ、私は約束通りネージュ・バリエにやってきた。この時間でもまだ社員は数名残っていて、久礼社長もいる。
耀の姿は見当たらないな、とオフィス内を見回していると、今日もワイルドさが素敵な社長が笑顔で出迎えてくれる。
「綾瀬さん、こんばんは」
「お世話になっております。パッケージのほう、順調に進めてくださってありがとうございます」
和やかに挨拶を交わし、しばしビジネスのお話をしていた。そうしているうちに、久礼社長は思い出したように独り言をこぼす。