明るい日が差し込む教室に、ひとり席に座って本を読む男の子がいる。
サラサラの髪の毛は絹糸のように綺麗で、肌は白く、伏し目がちの二重の瞳は優しく澄んでいて。
陽だまりに溶け込みそうな儚げなその姿は、天使だとか、王子様だとか、とにかく高貴ななにかに例えたくなるほど美しかった。
私は、彼のことを──。
『あんたみたいなヤツ、大嫌い』
──アラームの音が響き、私はぱちっと目を開いた。いつもは瞼が重くてなかなか開けられないのに、今日は珍しい。
でも、懐かしすぎる夢のおかげでものすごく変な気分だ。どうして今、小学校の頃の夢なんて見てしまったんだろう。
あの子に会ったわけでも、これから会うこともきっとないっていうのに。
あまり誇れるものではない幼い頃の記憶が蘇ってくる。黒歴史とも言うべきそれを振り払い、ベッドサイドの棚に手を伸ばしてスマホのアラームを止めた。
朝食をきちんと食べ、身支度を整えて、寝室の姿見で全身を軽くチェックしてから家を出た。
向かう先は高級チョコレートメーカー、「サンセリール」本社ビル五階。このフロアに構える社長室にて、私は日々“愛想”という鎧を身につけて戦っている。
緩く波打つ長い髪は気分でアレンジし、メイクはナチュラルすぎず濃すぎずに。フェミニンで品のいい服装がデフォルトで、身だしなみとマナーには常に気を配る。
外見だけでなく、社長の用件には先回りして応えられるよう脳をフル回転させ、スケジューリングもそつなくこなす。
こうした涙ぐましい努力の結果、ありがたいことに社員からも社外の人たちからも、『綾瀬なつみはデキる秘書だ』と言われるまでになった。
なにより嬉しいのは、優れたリーダーシップと人格、容姿までも兼ね揃えた若き社長、泉堂 達樹(せんどう たつき)にも認められ、彼の右腕としてお仕えできていること。
ただひとつ難点を挙げるとすれば、ハイスペックな彼と一緒にいるおかげで他の男性が霞んで見えてしまうことくらいだろう。
もうすぐ三十路に突入するというのに、結婚にはほど遠く、切ない独り身生活を送っている。だからと言って、婚活や合コンをする気にはならないのだが。
出社すると、まず受付の女の子が私に気づいて挨拶をしてくれる。
「綾瀬さん、おはようございます」
「おはようございます。今日は社長に来客があるので、よろしくお願いしますね」
「はい、わかりました」
気持ちのいい返事をする彼女に、私もふわりと微笑みかけた。だいたいの社員は、社長秘書ということで私の名前も覚えてくれていて、それが嬉しかったりもする。
社長室へ向かうまでの間に会う皆に、完璧な秘書のイメージを崩すことなく笑顔で挨拶をして、業務に勤しむ。いつもとなんら変わりない一日の始まりだ。
今日は午前十時から、新任された得意先の専務が挨拶に来る予定なので、それまで事務仕事を行っていた。
約束の時間になると専務を社長室まで案内して、お茶をお出しする。わが社の商品をアピールするためにも、チョコレートを一緒に。
このミルクチョコレートには緑茶の相性が抜群だ。ホワイトチョコレートにもナッツ系にも、それぞれに合うお茶があり、来客者から『美味しかったよ』とひとこともらえたときは、秘書冥利に尽きるものだ。
今日お見えになった専務は五十代くらいの中肉中背の男性で、とても愛想はいいけれど、面長のお顔がちょっと馬に似ていらっしゃる……というのが第一印象。
彼にも喜んでいただけることを願いながら、適温の湯で丁寧に抽出したお茶とチョコレートをお盆に乗せ、再び社長室に戻った。
「失礼いたします」
専務の右側からお茶をお出しすると、彼は「あぁ、どうも」と会釈して私を見上げる。そのまま、なぜかずっと視線を送り続けてくる。
内心気にしつつも、お盆を左脇に抱えて退出しようとしたとき、専務は惚けたような様子でこんなことを言い出した。
「ひと目見たときから思っていましたが、お綺麗な秘書さんですね~。三日どころかずっと見ていても飽きそうにないですな。むしろ見ていたい」
あからさまにデレッとする彼の顔を見た瞬間、完璧に演じていた秘書魂にピシッと亀裂が入る。
おいオヤジ、とツッコみたくなっても当然態度には出さないので、上機嫌の専務はさらに続ける。
「社長はイケメンだから耐えられるでしょうけど、こんな方が毎日一緒にいたら、僕みたいな凡人は仕事どころじゃなくなりますよ。はっはっは」
いや、仕事はしろ。
鼻の下伸ばしてないで働きなさいよ。馬面にさらに磨きがかかっていること、教えてさしあげたほうがいいかしら。
生憎、私たちのボスは顔がいいだけじゃなくて、硬派で素敵な男だから色仕掛けにも乗ってこないの。私のプライドがボロボロになるくらいにね。
……と、若干自虐も交えて毒づく私。ツッコミどころのある相手に対して、私の心の中でいつもこうなっていることは、ほとんどの人が知らない。
私は毒舌で愛想の悪い本性を隠し、人前ではお上品な仮面を被っているのだから。
今も表向きは「お褒めいただき、光栄です」と常套句を口にして、恥じらうような笑顔で会釈した。
まぁ、おそらく専務は場を和ませるために言っているのだろう。もちろん泉堂社長もそれをわかっているらしく、端正な男らしい顔に笑みを浮かべて返す。
「万が一、見惚れていて用件を忘れてしまっても、彼女がいればサポートしてくれますから。仕事も完璧にこなす優秀な秘書ですので」
大人の余裕とセクシーさを醸し出す彼の対応に、私の目は感動で輝いた。
社長……! この煩悩専務に気を遣いながら私の手腕についても褒めてくれるなんて、やっぱりあなたは最高のボスだわ。
たとえ秘書以上に見てはもらえなくても、こうやって時々もらえるご褒美が嬉しいし、日々の努力が報われるから、それだけで十分なのだ。
感涙しそうになるも、表面上は至極平静に会釈をしてその場をあとにした。
三十分ほどで挨拶を終え、専務は『お茶とチョコレート、とてもマッチして美味しかったです』と望んでいた感想をくれて、最後は心晴れやかにお見送りした。
手早く応接スペースの片づけをしたら、次はこちらがデザイン制作会社に挨拶に伺わなければならない。人気デザイナーの“Akaru”に、パッケージのデザインを依頼することになったのだ。