廣瀬さんの顔から視線を外して声だけ聞くと、確かにあの『はーい。わかりました』と同じ声のような気がする。
多分。きっと。おそらく。
そもそも配車担当に電話して、“廣瀬さん”が出たことなんてなかったじゃないか!
なんで気づかない……。

「なぜ、そんな名前……」

自分の不手際は、とりあえず誰かになすりつける。

「父は娘が欲しかったみたいで、好きだったアイドルの名前をつけるって心に決めてたらしいんです。でも男だったので、その人の名字の方をつけられました」

「生まれた時から間が悪かったんですね。すみません。馴れ馴れしかったです」

お皿と箸で手が塞がっていた牧さんは、顔をぶんぶん横に振った。

「いえいえ! むしろ、なんかいいなあ、って思ってて、あえて指摘しなかったので」

ふわわんと笑った顔は少し頬っぺたが赤かった。

知らなかったから「廣瀬さん」と遠慮なく呼べた。
名字みたいだから名前だとわかった今でも抵抗を感じないのに、これからそう呼べないのだと思うと、“廣瀬さん”がどこかへ行ってしまったような気持ちになる。
そんな気持ちを押し流すがごとく、ハイペースで梅酒ロックを飲み干したら、氷がカランと鳴った。

視界の端で、下柳が園花ちゃんに絡んでいることはわかっていたのだ。
だけど、本当に申し訳ないことに、枝豆サイズの私の脳は、今牧さんのこと以外考えている余裕がなかった。

「廣瀬さんが牧さんなら、なんで『趣味は走ることです』って言わなかったんですか? 一番インパクトあるのに。すみませーん! ファジーネーブルひとつ!」

ごま手羽にかぶりついていた牧さんは、紙ナプキンで一度口元を拭う。

「陸上は、“趣味”っていうには少し足を突っ込みすぎました」

「ああ、“仕事”だったからですか?」

「というより、何でも真剣にやればやるほど、つらいことの方が多くなるでしょう?」

「……走るの嫌いになっちゃいましたか?」

「いえ、好きですよ。でも、」

牧さんの視線はごま手羽に注がれていて、でもきっと違うところを見ていた。

「趣味になるには、もう少し時間が必要かもしれないです」

そういうものだろうかと、私は届けられたばかりのファジーネーブルをゆっくり口に含む。
牧さんもごま手羽を丁寧に食べていたので、私たちの間には沈黙が降りた。