「いいことを教えてやるよ」
「いいこと…?」
朝日の口から出る‘いいこと’は悪い予感でしかなかった。
「有明は今女と暮らしてるよ」
一瞬固まって、朝日の瞳を見つめる。
いま、彼の口から出た言葉の意味を理解する事が出来なかった。
有明は今女と暮らしてるよ
光は確かにわたしと同じマンションを出て行った。それが、今は女と暮らしている?
「嘘!!」
朝日が嘘を言っているとしか思えなかったし、嘘だと信じたかった。
光はわたしを好きだと言った。待っていてほしいとも。あの光の言葉が嘘だったなんて信じない。
「嘘じゃねぇよ。あいつの彼女だろ」
「そんなの絶対嘘!…だって光は…」
「有明はお前が好きだって言ったってか?
そんなの信じちゃって本当にお前は純粋だねー。あいつの過去なんてお前何も知らねぇだろ。本来有明はそういう奴なんだよ。お前の事も所詮は遊びでからかってたってだけだって」
「なんで…なんでそんな嘘つくの…?あたしの知ってる光はそんな人じゃない…
光はあたしに待ってろって言ってた…」
「お前よりずっと有明の事はわかってるつもりだよ。
好きだったとしても、環境が変わればすぐに心なんて変わっちまうもんなんだよ。
それにお前ゆいと仲良くしてるらしいな?」
「ゆい……?」
朝日の口からもう何も聞きたくなかった。
だからゆいの名前を出された時も、嫌な予感がした。
「ゆいは有明がスカウトした女だって知ってるよな?」
「知ってます…けど…」
「あいつと有明もセフレだろ。
お前本当に可哀そうになぁ…」
可哀そうに、その言葉と対称的に朝日は笑っていた。
ゆいと光が?
光には今、彼女がいて、一緒に暮らしていて、そしてゆいともそういう関係だった…?
待ってろって言葉も、わたしを好きだって言った言葉も嘘だった…?
信じたくない現実を目の当たりにして、足元から崩れていきそうになった。
この系列で働いて、朝日が何も言えないくらいの圧倒的なナンバー1になって、光の事も全部守って、この恋を守りたかった。
けれど光は、そんな事を望んでないというの?
「さくら………」
朝日はソファーから立ち上がり、わたしを後ろから抱きしめた。
体に力が入らなくて、朝日を振り払う事さえ出来ない。
…光の言葉は全部嘘だった?
「俺ならお前を泣かせるような事も不安にさせる事もしねぇよ…」
ぽろりと一粒涙が頬をつたう。
ゆりと付き合いながらも、何をいい加減な事をこの人は言っているのだろう。
けれど、朝日と同じくらい光も残酷な事をしている。
はっきりとした事は言わないで、いつも曖昧にはぐらかして、好きだと言ったのに、わたしではない誰かと暮らしている。
わたしを抱きしめる朝日の力は強くなる。
こんな時は、光と同じ熱い体温を持つ事にさえ恨みたくもなる。
「あなたは…一体…あたしにどうしてほしいの…」
「お前が泣く程有明の事が好きなら、お前は俺の女になってればいい」
「どうして…そうなるのよ…」
「お前は毎日俺の機嫌とって、俺の前で尻尾ふって、ただ俺の物でいればいい」
アクセサリーケースから指輪を取り出し、わたしの小指にはめる。
わたしを見下ろす朝日の瞳は氷のように冷たかった。
「ハッピーバースデー!」
どこからかしこの卓からシャンパンの抜かれる音がする。
情熱の赤をコンセプトとしたお店のフロアに真っ白い花がずらりと並ぶ。
お花をプレゼントされるのなら、白がいいと言ったらこぞって皆白い花を贈った。
赤と白って合うんだなぁってその光景を見て、改めて考える。
赤で統一されたフロアを、白いロングドレスを着て練り歩くわたしを絵になると人々は称賛した。
ゆっくりと、ひとつひとつの卓を見つめるようにフロアを歩く、わたしが主役の日。
「さくらちゃん、誕生日おめでとう!」
人生でこんなにも沢山の人におめでとうを貰う事はあっただろうか。
開けられていく高級なボトルの音と、むせかえるような花の匂い。
わたしはTHREEで19歳になる年を迎えていた。
「さくらおめでとうー!いえーい!あたしがシャンパン一気ぃ~!」
シーズンズから、はるなと綾乃がお客さんを連れてお店にやってきてくれた。
「ありがとう、ふたりとも…」
もちろん誕生日だから、ほとんどの席がわたしのお客さんで埋められている。
その中で黒服たちが忙しそうに動く。
2人の卓についてわずか、高橋がさっそくわたしを抜きにきた。
今日はろくにお客さんと会話もままならないようだ。
もちろん大半のお客さんはそれを承知で、わざわざ誕生日に足を運んできてくれている。
わたしの見栄や、プライドのため。
「じゃあ、2人ともゆっくりしていってね」
「さくら!」
綾乃がわたしの名を呼び、足を止める。
後ろを振り返り、視線だけ綾乃へ合わせる。
「さくら…何か変わったね?」
綾乃の言葉に微笑みをかけて、違う卓へと移動する。
開けれるだけのシャンパンを開けて、飲めるだけ飲んで
営業終了後、プレゼントの山と、お花に包まれてフロアーの中央のソファーに横になっていた。
「さくらー…さくらってばぁ…」
「起きやしないわよ、放っておきなさい。今日の主役なんだから。
随分頑張ったじゃないの」
「さくら本当にすご~い!!」
夢か現実かの境の中で、ゆいと凛と美優の声がした気がした。
それでもわたしの目が開く事はなかった。
この誕生日を迎えるまで、わたしは相当努力したと自画自賛できるほど頑張っていたと思う。バースデー当日まででもTHREEの売り上げはわたしが圧倒的な1番で、今日の売り上げも過去最高だと、仕事中に計算した。
見栄とプライドを守るためにわたしの名前が書かれたお花を沢山贈ってもらった。今までに貰ったことのない数のプレゼントも貰った。
わたしは、わたしの中にあるちっぽけなプライドを全力で守った。
高級なプレゼントと花に埋もれ、昔話のお姫様のようなドレスを着て自分を飾り、見たこともないようなお金を手にした。
けれど心は空っぽだった。
本当に欲しい物など、この世界には何1つない。
けれど本当に欲しい物がこの手に入らないとわかった時、わたしは簡単にそれを捨てた。
ゴミ箱にゴミをぽいっと投げるように、簡単に捨てた。
やっと楽になれた気がした。
「さくらー、さくらー、」
「んぅ~…」
はっきりとしない意識の中で、誰かに名前をずっと呼ばれている。
ゆっくりと目を開くと、スーツを脱ぎ捨てた高橋が手に水を持ち、心配そうにこちらを見つめている。
だるさが襲う体を無理やり起き上がらせた。
「うー…具合いわる…」
「お疲れさん。水飲め」
高橋の手から水を受け取り、一気に飲み干せば、少しだけ意識がはっきりしてきたように思える。
わたしの横。ソファーにどかりと座り、高橋も水を一気に飲み干す。
「今日はよくやったな、THREEでも2ヵ月でナンバー1おめでとう」
「ありがとう……」
この系列に入ってきた目的は1つだった。
けれど沢山の人々と出会い、沢山の感情に触れて、守りたい物を見つけ、わたしがナンバー1になる理由。勝ち続ける理由は沢山出来た。
でもあの日、その理由は音もなく崩れていった。
この世界に入って、大切だと思ったすべての物が嘘だったかのように。
「全然嬉しくなさそうだな」
高橋が苦笑しながら言う。
ソファーに寄りかかりながら、煙草に火をつけふーっと天井に吐き出す。
「俺は待ってるのかと思った」
「待つ?」
「今日社長が来てくれることを、さ。
さくらはずっと、今も待ってるんだと思ってた」
高橋の吸っていた煙草を奪い取り、大きく肺の奥まで吸い込んだ。
「ゴホッ」
「馬鹿か、お前」
「まず…。こんなん吸ってるなんて人間じゃないよね…」
口いっぱいに煙草の嫌な味が広がる。
あの日を思い返していた。
「お前は毎日俺の機嫌とって、俺の前で尻尾ふって、ただ俺の物でいればいい」
あの日、冷たくわたしを見下ろした朝日におしぼりを投げつけた。
一瞬怒った表情になった朝日は、わたしの右手を強く掴んだ。
「いた……」
殴られる、と思って思いっきり目を瞑ったら、その手の力は段々と緩んでいった。
すると自分の財布を取り出し、中からレシートを取り出し、その裏に何かを書いた。そして、それを差し出した。
「これ…」
「有明が女と住んでる住所。お前の時と同じ女を送り迎えしてるぜ?
嘘だと思うなら有明の仕事が終わる時間に行って見ろ」
手の中に書き殴りされた住所。
ぼんやりとそれを見つめていた。
朝日は再びわたしの前へ身を落とし、両手でわたしの頬をなぞるように触る。
細めた瞳の奥に、哀れんだ微笑みを浮かべた。
「何があろうと、どんな事が起ころうと、お前は最後には必ず俺のところに自分の足でくるさ」
背中に冷たい物が走る。
全てを支配してしまいそうなその手で、わたしの体を力強く抱きしめ、朝日はそのVIPルームから出て行った。
嘘だ。全部嘘に決まってる。
光が苦しそうにいった、わたしを好きだって言葉も、待っていてほしいって言った言葉も
優しい言葉も、わたしを抱きしめたあの手も、全部嘘だなんて嘘に決まってる。
わたしの前から何も言わずに去っていった光。 それでも、離れても、同じ気持ちだと信じていたから、この夜を越える事が出来た。
あのマンションのベランダで沢山の明かりが灯るのを見ても、ひとりなんかじゃないって、どこかに光がいて、同じ気持ちでいてくれているから寂しささえも抱きしめて夜を眠った。
朝日の言葉を信じてなかったのに、何故朝日が書いたこの住所に来てしまったのだろうか。
3月にまだまだ寒さが残る夜空の下、わたしはあの日彼に会うまで何時間でも待っていられたのだろう。
愛しかった。
会えない時間の中で愛しさは募っていくばかりだった。
毎日光のいそうな場所で足を止め、何ひとつ見落とさないように、目を開き歩き続けた。
いつかどこかで会っても、昨日も一緒にいたように「夕陽」とわたしの名を呼んで笑う光がいつだって見えた。
そしてわたしを抱きしめ、また名前を呼んで、わたしは光の腕の中にくるまれる。
信じてた。あなたのすべてを
でもその数時間後、わたしは見たくもない現実を目の当たりにする。
待っていたマンション前に、見慣れた黒い車が止まる。
わたしはすぐに光の車だとわかった。だって毎日一緒に帰ってきたのだから、そんなの間違うはずがない。
車のドアが開いた瞬間、光の匂いがふわりと香る。
あの日、すべてに引き裂かれるまで、わたしはこの香りを独占していたのだから。
「ひか、」
光、と声を掛けようとした瞬間、助手席から笑いながら女の人が降りてきた。
暗くてよく見えなかったけれど、スレンダーで髪の長い女性だった。
どくん、と心臓の音が大きくなったのがわかった。
違う、違うよ…。これは光の車なんかじゃないんだ。
たまたま光と同じ香水を使ってる人が光と同じ車に乗ってるだけなんだ。
そう願い、立っているだけで精一杯だった。
助手席から降りてきた女性はわたしの姿に気づいたのか、再び車のドアを開き、何かを話している。
そして、ゆっくりと運転席のドアが開いた。
すべての世界がスローモーションになってしまったのかと思うくらい、ゆっくりとしたでもはっきりとした時間が流れた。
中から出てきた人を見て、瞬きさえ忘れた。
「さくら!!」
こんな時でも自分で決めた約束を守るんだね。
ふたりきりの時しか名前を呼ばないって、でもそんな光の真面目なところが今は1番嫌だった。
硬直して動けないわたしに、助手席から降りた女性が駆け寄ってきた。
段々視界ははっきりしてきて、その人の顔がはっきりとわかった。
スタイルの良い、綺麗な茶色の髪をなびかせる。わたしよりずっと大人の女性で、とても目立つ容姿をしていた。その容姿を見て、七色グループの女の子じゃないって事はわかった。
こんな綺麗な人だったらグループ内でも話題になっているだろうし、どこの系列の宣材写真でもこの人を見たことがなかった。