どうやって歩いて、どうやって自分のマンションまで帰ってきたかいまいち覚えていない。それくらい色々な事を考えすぎて、何1つ整理がつかなかった。
明けていく空さえ睨みつけていた。
周りの視界がぼやけていた。それがはっきりと鮮明に映し出されたのは、マンションに入って、わたしの部屋の前に光の姿を見つめた時から。
「光……!」
光はわたしの部屋のドアに寄りかかり、目を閉じていた。
スーツ姿のまんま、疲れた顔をしてゆっくりと目を開けた。
いつから待っていたんだろう。最近はずっと話もしていなかったし、ろくに会う事もなかった。全ての事を含めて考えるのならば、光はわたしを避けていたのかもしれない。
全部知っていて、こうなる事もわかっていて、わざとわたしに会わないようにしていたのかもしれない。
「いつからいたの…?!
連絡してよ…!てか同じマンションなんだから、自分の家で待ってれば良かったじゃない…」
駆け寄って光の手を握ると、いつも熱い程の体温を持っている彼の手が指先まで冷え切っていた。
いつから待っていたというのだろう、この人は。
それでも柔らかい微笑みを浮かべ、いつものように軽くわたしの頭を撫でる。
笑いたくない時まで、笑わなくていいのに。
「もう、ここに家ないから」
「え?!」
光の言ってる事の意味がわからなかった。
「ちょっと前に引っ越したんだ」
「何で…?!」
言いたい事は沢山ある。
引っ越すなんて聞いてない。どうして黙って引っ越してしまったのか。何故わたしがTHREEに移動になる事を知っていながらずっと隠し続けたのか。
わかってる事は、光が自らわたしと距離を置こうとしている事だけだった。
「ごめんね、夕陽」
その言葉を聞いて、初めて光の前で涙を流した。
悲しい日だって、嬉しい日だって、わたしは誰の前でも泣かなかった。
いつかの高橋に言われた言葉を思い出し、わたしは頑なにこの仕事をしていく上で人前で涙を流したりしないという自分との誓いを守り続けてきたのだ。
けれど何故、いま、自分の頬から流れる涙を止めることが出来ない。
止まれ、止まれ、止まれ、何度も言い聞かせても、全然止まってはくれなく、自然に瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
光の言う、ごめん、って言葉が大嫌いだった。
「なんで勝手に引っ越ししたりするの…。
なんで色々な事、全部あたしに話してくれないの…?
今日綾乃ちゃんと話して、光の妹だって聞いた…。光が宮沢さんに縛られて生きてる事も…なんで光はいっつも苦しい事を自分の中で抱え込むの?
…なんであたしは何も出来ないの?」
自分の中で溢れて止まらない気持ちが、一気に涙と共にこぼれだした。
「夕陽と出会って幸せだった…。
なんかなぁ、俺なんて幸せになる資格なんてないと思ってたのに、お前と一緒にいると俺なんかでも幸せになれるって錯覚しちゃった…」
「幸せになるのになんて、資格なんかいらないんだよ…。
ねぇ、光…あたし七色グループで誰にも何も言わせないくらいの圧倒的なナンバー1になるから…あたしがグループからいなくなったら困るって宮沢さんが思うくらいの…女になるから…そうしたら光を自由にしてあげるから…
だから離れていかないで…
光がいないと…あたし頑張れないの…」
もう涙が溢れて止まらなかった。
力なくし、その場に座り込むわたしを、光は優しく抱きしめた。
抱きしめられて、余計に涙が止まらなくなってしまう。
「離れていくくせに、優しくするなんてずるい…」
「俺、ずっとずるい奴だったよな、お前は真っ直ぐに俺を好きだってずっと言い続けてくれたのに、俺もお前を好きだったのにずっと夕陽の気持ちから逃げ続けてた。
夕陽は言葉や行動で俺を好きなのをずっと伝えてくれてたのに、俺は夕陽に何もしてあげられなかった…」
「もう逃げないで…。
何もしてくれなくてもいい…。気持ちに応えてくれなくたっていい…。
お店でも会えなくなって、住む場所も変わってしまったら、あたしたちを繋ぐもの、何もなくなっちゃうんだよ…」
「ごめん…夕陽…」
誰もがわたしと光の恋を応援はしてくれなかった。自分たち自身さえも、この恋を大切には出来なかったね。
全ての繋がりを呪った。
あの時わたしが全てを捨てても光との恋を選んでいたなら、また違う未来を手に入れる事が出来たのかもしれない。ふたり、笑い合う未来を。
あなたが好きだと言ってくれたあの頃のわたしは、もうここにいない。
大切な物を、シーズンズに置き去りにしたまま、時は無情にも過ぎ去っていくばかりで、わたしの力では、何も止める事は出来なかった。
どんなに向き合いたくなくても、どんなに目覚めたくなくとも、朝は必ずやってくる。
眠ったのか、眠ってないのか、わからない狭間の中で、カーテンの隙間からわずかな光が漏れている事を確認し、始めたくない今日を迎えてしまったのに絶望していた。
重い体をベッドから起き上がらせて、リビングへ向かう。
リビングのテーブルの上には、光から貰ったネックレスとピンキーリングが置かれていた。
これは昨日、わたしがもうつけないと思いテーブルに置いた物だ。
乱雑に置かれているそれが、昨日の出来事を夢ではなかったと思い知らせる。
すぐに洗面所に行き、鏡の中に映る自分の姿を見つめる。
「うわー…ぶさいく…」
泣きすぎたせいだろうか。
二重の目が一重になっている。
誰かが言ってた事があるな、次の日目が腫れないように泣く時は目を擦らない事って。
でもそんな事さえ考える余裕がなく、昨日は子供のように泣きじゃくった。こんなに涙は枯れない物なのか、というくらい泣いた。
そんな事を考えながら、鏡の自分と向き合っていると、片方の目から涙がほろりと落ちた。
…あんなに泣いたのに、もう泣けなくなるほど涙を流したなんて嘘だよ。何度考えても、何度あの場面を思い出しても、思い出した分涙はとめどなく溢れてくる。
今まで我慢していた分が吐き出されるがごとく、ぼろぼろと両方の目から涙が零れ落ちた。
目からあふれ出る涙を拭うのさえ、もう疲れた。
顔を洗って、力無くソファーに転がり込み、そのまま携帯を手にした。
時刻はまだ午前。12時前。少ししか寝ていなかった事を知り、その後着ていた電話とラインを確認する。
はるなと美優。そしてお客さんたちからラインや電話が数件入っていた。
光からのラインはない。電話もない。
わかっていた事だけど、それを確認した後、誰からの連絡も見ないで、携帯を床に放り投げた。
いつか始まるはずだった恋。
初めて人を好きになるのは喜びだった。
片思いは苦しみで、初めて想いが通じた瞬間は、この世界にこんな幸せがあるのか、とさえ思った。けれど、好きな人が自ら自分の傍から離れていくのは絶望しかなかった。
光の存在で鮮やかに染まった世界は、一瞬にしてモノクロの色を持たない世界になった。
全てのやる気が起きない。
今日はTHREEの初出勤日。それさえ、行く自信がなかった。
体中に力が入らないんだ。頭では行かないといけないとわかってる。
ルーズな人が多い世界で、遅刻や無断欠勤は当たり前。けれどわたしは一度だって休まなかったし、遅刻もしなかった。それを周りはいつも褒めてくれた。
けど…今は起き上がって何かをする勇気さえ持てない。
自分は空っぽになってしまった。
ソファーで何もしなく過ごしても時間は無情に過ぎていき、2時間ほどぼんやりと過ごした後、突然床に放り投げた携帯がけたたましく着信を告げる。
それを拾い上げる気力さえなかった。
それでも電話を掛けてくる主はよっぽどしつこいらしく、10分ほど着信音は鳴りやまないままだった。
「もー…うるさ…」
苛立ちを感じながら、携帯を手に取ると、そこには高橋くんと画面に名前が浮かび上がっていた。
「高橋くん…?」
高橋からの着信は非常に珍しいものだった。
シーズンズの頃ずっとわたしの担当だった彼は、滅多にわたしに電話を掛けない。
お店の嬢が遅刻や欠勤をしないようにするのも担当の黒服の仕事だった。それでもなおも高橋がわたしに連絡を取らないのは、さっきも言った通りわたしが遅刻や無欠勤をしなかったからだ。
誰に何を言われるでもなく、必ずお店に行っていた。
要は信頼されていたということでもある。
その高橋がこのタイミングでわたしに連絡をしてきた。
それに今日からはわたしはTHREE勤務で、シーズンズの黒服の高橋は担当から外れた事になる。
…何故、このタイミングで?
「…もしもし?」
ずっと泣きっぱなしだったからか、声が上手く出ない。
「もしもしさくら?!お前ー!電話すぐ出ろよ!
つぅか何その声、めっちゃガラガラじゃん」
電話口から、高橋の大きな声が響く。
耳が痛くなり、思わず携帯を耳から離す。
「朝からうるさいなぁ…」
「朝って。もう昼の2時過ぎだぞ…?」
「キャバ嬢にとって昼は朝なの!
用事はなに?いま、高橋くんと言い合いする元気もないんだけど…」
「そんなこったろーとは思って電話したんだけどな。
綾乃さんから連絡があったから、電話したんだ」
「綾乃ちゃんから?」
綾乃から?高橋に一体何を…。
ぼんやりした頭で昨日の事を再び考える。
考える事で再び光を思い出す。もうここまで来ると重症だ。
「綾乃さんから一通りの事は聞いた。お前今日出勤しないつもりだっただろ…」
何でわたしの思ってる事は全てお見通しなんだろう。
「あたしが出勤しようが、休もうが、高橋くんには関係ない事じゃない…」
「それが全然関係ない事じゃないんだな。
色々と混乱するだろうから、さくらが出勤するまで会長から口止めされてたんだけど、俺実は今日からTHREEの副店長なんだよ」
「は?!」
「と、いうわけで引き続きさくらの担当になったわけ。
異例の大出世だろ?まぁ、さくらの担当をしててさくらの売り上げが良かったから評価されただけなんだけど」
確かにそれは会社的にも異例の大抜擢であろう。
高橋はまだ七色グループに入って日が浅い。それでもわたしが見る限り、出世には貪欲な男になったと思うし、女の子を管理する能力もある。
けれど、深海が評価されない事と、ONEの店長だった原田が部長になった事も、全部全部朝日が動きやすい駒を、自分の思い通りに配置したようにしかわたしには見えなかった。
わたしが売り上げを上げた事で評価するなら、それは深海の昇進だ。
けれども朝日は深海をシーズンズの店長から移動はさせなかった。
深海は光を慕っている。朝日にとって、光を慕う人間は私情で上には上がらせないようにしているのではないかとさえ思った。
「そうだよね。あたしが出勤しなかったら高橋くんの評価も下がるもんね…」
「なんだそれ。1人で拗ねてる奴に言われたかないね」
「なっ!」
「さくらはもう終わりか?お前そんな根性ない奴だっけ?」
「高橋くんにあたしの気持ちなんかわかんないよ!」
「ぜんっぜんわっかんねぇなぁ!
たかが男と引き離されたくらいで、拗ねてるお前の気持ちなんか。
俺はシーズンズが好きだったし、深海さんを尊敬してる。だからこそ、このグループでのし上がってやるつもりだ。今は力はないかもしれないけど、もっと上に行けるようになれば俺にだって権限が与えられるってもんだろ?そうしたら俺は深海さんをもっと上の立場にしてやる…。
さくらにはそんな気持ちないのか?」
高橋の言葉が胸にぐさりと刺さる。
それは昨日のわたしの姿だ。
光にすがりついた。あたしが圧倒的なナンバー1になるから、と。
宮沢さんが何も言えなくなるような女になるからって。
昨日言った言葉なのに、自分がそれをいかに軽視していたのか手に取るようにわかる。
わたしは結局いつも口だけ。
今だってそう、あの言葉は本当に光を助けたくて言った言葉じゃない。
その場限りの、光を引き止めるための口実だ。
だって結局わたしは立ち止まり、泣いてばかりいる。
「う………」
自分の情けなさと、浅はかさに思わず涙がこみ上げる。
「俺の前で泣くな!」
「…!」
それは高橋がわたしの担当になった時に言った言葉そのままだった。
「悔しいなら、納得いかないのなら、何度でも立ち上がれ。
どうしようもないって諦める事を考える前に、今自分が何を出来るのか、考えろ!」
高橋の言葉はいつも厳しい。
光のようには決して優しくはない。 それでもどこか説得力があるのだ。
言葉だけで、行動に何も移せていないわたしなんかよりはよっぽど。
「泣くだけ泣いて世の中どうしようもない事もあるって少しはわかったろ。
それなら心切り替えろ。
どれだけ遅刻してもいい。店長にはなんとか言っておくから、絶対にTHREEに出勤しろ」
立ち上がる気力なんかなかった。
それでも温かい蒸しタオルで自分の目を温めて、もう泣かないように何度でも高橋の言葉を思い出した。
心の整理なんかつくはずもない。
それでも待ってくれている人がいる。ただそれだけの事実がわたしの心を動かした。
セットにも入れなかったから髪はストレートのまんまだし、お客さんの連絡も一切返してない。メイクをする手も全然進まないし、食欲だってもちろんない。
それでも何かにとりつかれたように、1時間遅刻して、わたしは初めてTHREEの入り口をくぐった。
入った瞬間、目を覆ったのは鮮やかな赤色だった。