「今日はありがとうございました」

お店の入り口で小笠原に深く頭を下げた。
夏の夜のむわっとした風が肌をまとわりつく。

「僕の方こそ久しぶりに楽しかったよ。ありがとう。
今日は体入って言ってたね。どう?シーズンズでの仕事は続けられそうかい?」

「もちろん続けますよ」

「そう、それは良かった」

「小笠原さん!」

手をあげタクシーを捕まえようとする小笠原を引き止める。
壁に埋め込まれたシーズンズのオレンジ色の看板が光を放っている。
なんであんな事を言ってしまったのかわからない。体が勝手に動いて、口が勝手に開いていた。くるりと振り向いた小笠原の手を掴んでいた。少し熱の帯びた手のひらだった。

「あの、わたしを指名してくれませんか?」

自分の口からこんな言葉が出るなんてびっくりだ。
振り向いた小笠原の方がずっとびっくりしたような顔をして、そっと手を外し、すぐににこりと笑う。

そしてその問いかけに答えることもなく「おやすみ」とだけ言い残して颯爽とタクシーに乗り込んでいった。

着ていたワンピースに汗が少し滲みこむ熱帯夜に初めて出会った人。
小笠原さん、今も元気に過ごしているでしょうか? わたしはやはりこの日を忘れることはできません。けれどこの日の景色は悲しくは記憶の中に残ってはいません。
あなたとの出会いも大切なものであった。
切なくも、優しく、いまもわたしの背中を強くおしてくれています。