温かい雨が頭の先から顔に、そしてゆっくり頬、顎をつたって身体の中に溶け込んでいく。
夏の雨は温かかったはずなのに、するりと身体の中に落ちる頃には鋭い冷たさが胸を突き刺していく雫に変わっていた。
悲しい、寂しい、苦しい、悔しい、許さない。
自分の中のありとあらゆる負の感情を集めれるだけ集めて、遠い空を睨みつけた。
甘ったるい蜂蜜のような夕焼けの空が見えて、これが天気雨だったのだと今更になって知る。
こんなに美しい景色が目の前に広がろうとも自分の中に芽生えたどす黒い感情が少しも消えてくれないことに失望した。
「さー、ちゃん?」
その名を空に向かって呼びかけても、返ってこない現実を突きつけられ絶望した。
いくら願っても叫んでも届かないものがあると知ったのは18歳になったばかりの夏の、怖いくらい綺麗な夕焼けの空の下だった。
蜂蜜色に染まっていく空を睨みながら、泣き続けた。
誰の意志でもない。
あの夏、わたしは自分の足でこの場所にきて、自分の力で戦うことを選んだ。
「この仕事は初めて?」
気怠い雰囲気の男は黒く、長い前髪をかきあげて、わたしと目の前の履歴書を交互に見やる。
眼鏡の奥に隠された一重の目元には優しさは少しも感じられず、取り付けられた冷房の音だけがやたらと空しく響く部屋の中には、やたらと派手な装飾品が飾られている。
何も意味を持たない空間。
「はい…」
それでも緊張していたわたしは返事をするのが精いっぱいで、自分の背筋をすーっと冷たい汗がつたうのを感じていた。
中に着ていたキャミソールが汗で背中に張り付いて、不快な気持ちでいっぱいになる。
「いつからこれますか?」
さっきからくすりとも笑わないこの男は、最初に挨拶と自分の名を深海とだけ名乗り、採用の有無さえ言わずにこの言葉を投げつけた。
こんなものなのか、と思う。
「来週からならいつでも大丈夫です」
「じゃあ、月曜日。
20時までにお店に入ってもらえますか?
髪のセットは他でしても構わないけれど、うちのグループの専属を使うなら1回ごとに1000円給料からひかれます。
ドレスなんかは店に何着かあるか自由に使ってもいいから。
後は小さなポーチとハンカチを何枚か、ヒールの靴は自分で用意できるよね?」
深海は一気に事務的な説明をすると、目だけでじいっとわたしの顔を見つめた。
愛想のかけらもない男だ。
「あと、名前、どうする?」
「名前?」
「お店での名前。別に本名を使ってもいいけど」
いわゆる源氏名というやつだ。それくらいは無知なわたしでもわかる。
数秒、うーんと考えた後わたしが発した名前に深海は目を丸くした。
「さくら」
「さくら?花の桜?」
「いえ、平仮名でさくらにします」
そう告げると、深海は眉毛をしかめた。
元々気難しそうな顔が、更に険しくなる。
「‘さくら’という名前は他にもいますか?」
わたしが面接を受けた、いわゆるキャバクラという世界。
七色グループはこの大きくも小さくもない繁華街の中では力のあるグループで、このあたりだけでも4つの系列店がある。
源氏名は、系列店を含めかぶってはいけない、というのが七色グループの決まりであるのはさっき深海から聞いた。
「いや、いまはいないよ。いまは」
今は、ととってつけたような言い方をして、深海は紙にお世辞にも綺麗とは言えない字で「さくら」と記入した。
「さくら…。
さくら、来週からよろしくな」
初めて笑顔を覗かせる。
それは深海にとって作り笑いだったのかもしれないが、笑うと細い目が垂れ下がり、片方だけ八重歯がちらりと見える。それだけでぐっと優しくなりさっきまでとの印象と変わる。
自分の人生を変えるような出来事や、本当の自分がどんな人間なのかと知る数々の出来事が起こったのはいつもこの場所で、人の冷たさも、世の無情も、全部教えてくれたのはこの場所で、それでもここで立ち上がり続ける勇気をくれたのも、自分が思うよりも深く愛されていて、一人じゃないって事を教えてくれたのもこの場所だった、と。それを知るのはずっと後になるのだけど。
18歳。
さくらが生まれたのはとある晴れた初夏のこと。
七色グループ。
この街での系列店は4つ。
5年でここらでもトップに上り詰めた。このグループを束ねる頂点に君臨するのは、宮沢朝日 という男。
会長というトップの肩書きには似つかわしくなく、彼は28歳といういう若さでお金と地位と名誉を手に入れた男で、このあたりの繁華街で働くものならば彼の名を知らないものはいない。若くして成功を手に入れた敏腕経営者だった。
彼をピラミッドでいうのならば頂点に見立てて、4つのお店がある。また、その4つのお店にもランクがつけられていた。
女の子のレベルもお客さんのレベルも、もちろんそのお客さんが払う金額も高い、高級キャバクラ「ONE」写真でしか見たことのない店内は、高級をまるで絵に描いたような造りになっている。
次に、こちらもわたしはパネルやインターネットサイトでしか見たことがないが、ONEに負けず劣らず綺麗どころばかり揃えた「双葉」キャバクラにしては珍しく漢字の名前で、店内は和で統一されてるらしく、働いている女の子の平均年齢もONEよりは少し高め。
キャバクラには珍しく「ママ」という制度を置いている。どちらかといえばクラブ寄りの店になっているらしい。
ついで、ONEや双葉に入れる女の子が敷居高めというのもあるのだが、面接にくれば大抵採用になるという「THERR」大衆キャバクラにあたる。ONEや双葉に比べれば良心的な値段で遊べる設定になっている。
そして、最後に
わたし、さくらが面接にいった「シーズンズ」価格帯はTHERRと対して差はないが、改装したばかりという店内は中々綺麗だ。それもそのはず、このシーズンズはふたつき前にオープンしたばかりの、七色グループ4店舗目の系列店なのである。
オープンしたてなので、キャストは皆同じスタート!働きやすいお店です!と、よくある謳い文句が綴られた求人を見て、わたしは面接にきたのだ。
もちろんそれだけが目的ではなかったのだが、わたしは18歳の夏にこのシーズンズでさくらという新しい自分の人生をスタートさせたのである。
「こんばんは」
深海との約束通り、次の週わたしはシーズンズに出勤した。
深海はお店裏のパソコンの前でカップラーメンをすすりながら、怪訝そうな顔でわたしを一瞥する。
「おはようございます」
「はい?」
「この世界、夜に出勤してきても挨拶はおはようございます、だから」
そんな事も知らんのか、と呆れ顔
「はぁ、すいません」
最初のお店の初めての店長。
少し長めの黒髪、眼鏡の奥の何を考えているかわからない細い瞳。
最初は好きになれなくて、どこか冷たいイメージしかもてなかった。
深海は基本的な接客やお酒の作り方、煙草の火のつけかたをわたしに教えてくれた。やることはとても単純で、お酒を作ってお喋りをする。それなのにわたしに提示された時給は少し驚くものだった。
一通りお手本を見せた後、放り投げるようにお店のドレスルームに連れて行かれた。ずらっと並んだ煌びやかなワンピースは小さなお店が開けそうなくらいあった。
「ドレスはそこにかかってるの、どれでも好きに着ていいから。週末に全部クリーニングに出すから、終わったらもとに戻しておいて」
「はぁ…」
先ほど、初めて行ったお店のセットのお姉さんにふわふわの巻き髪にされた。勿論他人に髪のセットをされたのも、こんな髪型をしたのも生まれて初めての経験で、目の前にある煌びやかな衣装を身にまとうことだって初めてだった。
正直自分に似合う服がわからない。
裾を掴み、目の前のワンピースとにらめっこをしていると、さっと水色のワンピースを手に取った女性と目が合った。
「おはようございまぁす」
鈴のような声で、にっこりと愛想よく笑う。目の前に現れたのは、わたしが今まで生きてきた人生では出会うことがなかったような人種。
一言でいえば派手。
「おはようございます…」
自分自身でも社交的な性格ではないことを知っていた。
目の前の彼女の顔を見れず、彼女が手に取った水色のワンピースにばかり目が行く。胸元にカラフルなビジューがついていて、綺麗だななんて下らないことばかり考えていた。
「体入の子?
わたしは美優。よろしくねぇ~!」
顔を上げたらにこにこしながら美優は人懐っこい笑顔をこちらに向けた。
「はじめまして、さくらです」
テレビや雑誌で見たイメージは女の戦場。
怖い人ばかり、火花を散らす世界。そんなイメージを覆してくれたのも美優との出会いだった。
きっちりとセットされた髪とばっちりとメイクされた顔。
でも美優はその見た目と反して親しみやすい雰囲気を出しながら、1枚のワンピースを手に取り、わたしに合わせる。
「ん~?こっち、あ!こっちも似合うかなぁ?あ!でもこのピンクが似合うよ!これにしなよ!」
美優が再びピンクのワンピースをわたしに合わせて「よく似合ってる」と、得意げな顔をした。
選んでくれたワンピースを持って更衣室に行って着替え、美優に手を引かれるままに女の子が待機しているという場所に連れていかれる。更衣室で着替えている間も相槌しか打てないわたしにずっと話をかけ続けてくれていた。
待機の場所に行くと女の子がずらっと並んでいて、品定めするように一斉に視線が集まった。「おはようございまーす」美優が言って私の手を引っ張り「こっち座ろう」と空いているソファーに腰をおろす。
話を聞くと、美優はわたしより2つ年上の20歳で、昼間はOLをしていてお店に出勤するのは週に3~4回程度らしい。わたしが週6出勤だと言うと「じゃあレギュラーだね」と言った。どうやらレギュラーとアルバイトに分けられているようで、美優のように昼間の仕事と掛け持ちしている女の子はアルバイトが多いらしい。
高い声と派手な髪形と化粧。だけどよく笑う子で、何よりも人付き合いが昔から得意ではないわたしに初めて親切にしてくれた初めての夜の女の子だった。
「美優おはよう」
そんな美優と話していると、背の高い黒髪の大人っぽい女性がわたしたちの隣に座ってきた。
すらりとしていて、スタイルが良い。手にもっていたポーチから煙草を取り出しながら、わたしの顔を見つめる。
「あ、煙草だいじょうぶ?」
「だ、だいじょうぶです」
「だいじょうぶ?じゃなぁ~い!
綾乃ったら挨拶もなしに失礼じゃなぁ~い?!」
そんなわたしたちの会話に入ってきたのは美優で、綾乃は火をつけようといた手をとめて「あ、ごめん。体入の子だよね?あたしは綾乃。よろしくね」そういって微笑みながら、煙草に火をつけて、ふーっと煙を天井に向かって吐き出す。
「さくらです。よろしくお願いします」
「さくら?へぇ~、さくらかぁ。ふぅん」
「さくら!綾乃はこのグループが出来たばかりの頃からいるの!お局様ってやつぅ~?だから何でも聞いたらいいよぉ~!」
悪戯っぽく笑いながら美優がそういえば、こらっと綾乃が美優の頭を小突く。
「美優さんも綾乃さんもおろしくお願いします」
「さんづけしなくてもいいわよ」
「あたしも~!美優って呼んで~!」
美優は20歳。綾乃は23歳らしい。さすがに年上を呼び捨てには出来ないと言ったら、じゃあちゃんづけにしてということで話はまとまった。夜の世界に生きているのに、ふたりとも思ったよりもずっと優しくて、思ったよりもずっと親しみやすかった。