「いいえ、ありません。そちらはありませんでしたか」


同じ事を今度は市助が聞く。女はその言葉に頷くだけであった。


「そうですか。それではこれで」


女の名前を聞く勇気もなかった市助は、そのままその場を立ち去る。女も市助が今まで歩いた方向へ、歩を進める。

市助はふと振り返り女の方を見た。海老茶色の行燈袴に垂れる髪。市助にとってそれは一際輝いて見えた事だろう。

もう会う事もないだろうと市助はその後姿を、しっかりと目に焼き付けるかのように見続けた。


出来事があってから数週間が経過した日の事である。桜の花弁が地に全て落ちようとしている季節。

二人は偶然にも再開をする事となる。切欠は市助がある道を通った。ただそれだけなのだ。

賑わいを見せる町中。その賑わいにはまるで参加を拒んでいるかのように、ひっそりと河原へと続く道があった。

河の音を聞きを落ち着かせようと、市助は河原へ。その道中にある一際目立つ巨大な桜の樹。傍には女の姿。それは市助が出会った女であった。