「時間は戻らない、儚いもの……私も、そう思います」
そう呟く公子様の宝石のような紫の瞳は、ラベンダー畑ではなく、そのもっと遠くを見つめているようだった。
まるで、何かを思い出しているかのよう。瞳も表情もとても儚げだ。
「……私は以前。騎士として、してはならない事をしてしまいました」
胸の奥がドクッと跳ねた。
騎士としてはならない事……恐らく、アルフォード公子様は、あの時のことを言ってるんだと思った。
王都の学園文化祭で、偶然にもお見かけした。あの時の凶行の事を……。
「私にはもう、剣を握る資格はありません……」
彼の話に耳を傾け、思わず拳に力が入った。
見上げたその表情は、無理矢理笑顔を作っているけど、でも瞳は揺れていて。
「あの時は確かにそれが正しいと信じて疑わなかった。自分は正義だと。……今、思えば、何故そんな風に考えていたかもわからない。現在、こんなにも後悔しているというのに」
「公子様……」
「そして、今もわからないのです……自分自身が」
犯した過ちに、悔恨を残しているのだ。
(心が、泣いている)
感覚的に、そう思ってしまった。
悔やんでも悔やみきれない感情、過ちを犯した自分に対する不信感。その狭間で苦しんでいる。藻搔いている。
笑顔で隠そうとしても、ひしひしと伝わってきた。この人は、どれだけの後悔と苦悩を抱えていたのか、と。
あの時……丸腰の女性であるアゼリア様に向かって理不尽に剣を抜こうとした。それは、誰から見ても犯してはいけない過ちだ。
……でも、あの時の鬼の表情からは考えられない、今のこの様子。
あの時は、正気ではなかったのだろうかと思えてしまう。
ーーだとしたら何故、何が彼をそうさせたのだろう。
「でも、君の今の言葉で少し前を向けそうな気がするかな」
「私の、言葉ですか?」
意味を問うと、公子様は笑顔で頷く。その美しい顔に、また心臓が跳ねた。
「どれだけ後悔しても時間は戻らない。悔やむのか励むのか、どちらが良いのか。それなら君の言う通り、日々励み小さな徳を少しずつ積んでいく方が、少しでも前に進めそうな気が……する」
自分の思いを話してくれる公子様は、そうしてまた、ラベンダー畑の方を向いた。
そよ風に靡く髪と、整った横顔は……あの時の彼の姿と重なった。
《……それは、とても素敵な話だね?》
そう私に告げて、満足気にラベンダー畑を見据えていた……幼き頃の彼の姿と。
過去の美しい回想の世界に、一瞬でも引き込まれていたことに、ハッと気づく。
考えていることを悟られまいと、繕うかのように次の言葉を慌てて口にした。
「そ、そうですっ!その通りだと、思います!悔やみ続ける毎日より、自分の出来ることを考えて励む毎日の方が良いに決まってます!試練は、精霊王様の思し召しです!」
「あはは。昔、神殿で指導を受けてた時、神官がそんなことを言ってたような。君は見習いだから神殿で教えを叩き込まれている真っ最中だよね」
「はい!」
でも、もう追い出されてしまいましたけど。
この世に起こる全てのことに、意味がないものなんて無い。
全て、意味があるのだ。
……だとしたら。
私が冤罪で神殿を追放されたことも、彼の後悔をするほどの凶行も。
このレディニアで、かつて憧れを抱いたこの御方と再会したことも。再び、このラベンダー畑を共に眺めていることも……何か意味はあるのだろうか。
「そういや、神殿にいたのなら……私の兄をご存知ですか?ランクルーザーという聖騎士なのですが」
「ランクルーザー様!いつも良くして頂いてます!優しいし、いつも美味しいおやつ持ってきてくれるんです!」
「おやつ……」
全ては、精霊王様の思し召し。
○○○
時が経つのは、早いもので。
私が神殿を追放されて、このルビネスタ公爵領に来てから、もうすぐで二ヶ月になろうとしている。
「ラヴィ!今持ってるやつは応接室にな!あと、そこにあるのは旦那様んとこ!」
「うん、わかった」
ルビネスタ公爵邸の正面にある庭園にて、私は庭師見習いの男の子の指示で、花を仕分けていく。
先程採ったばかりの庭園の花たちだ。お屋敷に飾るために、庭師らが持ってきたのだ。
労働を嬉々として、私は花を束にしていく。
ーーレディニアにある公爵様のお屋敷に身を置いてから、約二ヶ月。
罪人として追放された私が、この公爵家でどんな扱いをされるのか。不安でしかなかったけど、そんなものは杞憂だった。
なんと。ルビネスタ公爵家の皆様には、驚くほど良くしてもらっている。
アルフォード公子様にラベンダー畑を案内してもらったのだが。あの数日後、ルビネスタ公爵様に連れられて、またラベンダー畑を見に行くこととなった。ラベンダー畑鑑賞のおかわりだ。
そして、有言実行で街を案内してもらう。カフェにも連れてもらった。
『公爵様と二人きりだと変な噂が立つ』と、公子様は強く言い張るので、夫人のサルビア様も同伴で。……もちろん、公爵様は執務を終えての外出だ。胸を張って堂々と私と外出するために、執務を頑張ったらしい。
私をブティックに連れて行く。公爵様はそう言ってきかなかったのだが、『旦那様、私らは仮にも公爵家ですのよ?』と、サルビア様に諌められ、ブティックには寄らず。
なんと、お屋敷に仕立て屋を呼んでしまった。……私の服を、作る?そのために?わざわざ仕立て屋を呼んで?
『ええっ!あ、あの、そこまでしてもらわなくてもっ』
と、恐縮してしまう。神殿を追放された罪人に、オーダーメイドなど。罰でもなんでもない。
だが、サルビア様は『いいのよ、私らがしたくてしてるだけなんだから。そんなに遠慮しないで?』『貴女はセドリックとプリムラの可愛い娘なんだもの。何かさせてちょうだい』と、最後には亡き両親の名前を出し、にっこり微笑む。
断りきれず半ば強引に押し切られ、結局、ドレスや普段使いのワンピースを数枚作ることとなった。
……しかし、数日後に届けられた出来上がりの衣服類は、数枚なんていう可愛い量ではなかった。私の使用する客室のクローゼットに大量のドレス、ワンピース、選んだ覚えのないアクセサリー類や小物が延々と運び込まれる光景を目に、唖然としたものだ。
こんなに頂いてしまっては、何かを返さないといけない。
その対価として、公爵様に労働を申し入れたのだが、『とんでもない!』と逆に驚かれたことにこっちも驚き、二人で驚き合うというおかしげな光景となった。
『で、ですが公爵様!神殿では労働の対価として僅かながらの給金を頂いておりました。あんな大量のドレスや貴金属類、どれだけ働けば返せるので……』
『返さんでいい!ラヴィ、おまえは仮にも伯爵令嬢だぞ!貴族令嬢は生きているだけで対価なんだよ!……あぁ、神殿なんかに住み込み見習いしたがために、神殿の貧乏根性が身に付いて、あぁ……五年前、二人が儚くなった時、やっぱりおまえだけでも引き取るべきだったよ……あぁ、伯爵令嬢が、僅かながらの給金ってなんだよ……あぁ』
最後の方は、まるであっちの世界に行ったかのように、悲し気にぶつぶつと独語していた。
神殿の貧乏根性とはなんですか、公爵様。
結局、労働は却下される。
この大きいお屋敷で、食う寝るお茶の繰り返し生活で何もすることがなく、ソワソワしていた私だったが。
『ラヴィは、一応タンザナイト伯爵令嬢なのですから、お勉強しましょうね』
と、サルビア様から、一日一回数時間程度、淑女教育を受けることになった。
確かに。私は一応貴族令嬢。だが、神殿勤めをしていたため本格的な淑女教育とは無縁だった。
だが、それでも時間が余るため、隙間の時間はこうしていろんな人のちょっとしたお手伝いをしている。
今は庭師さんらの持ってきた花の仕分けだが、他にもメイドさんのお掃除とか物を運ぶお手伝いをしたり。
使用人の皆様には恐縮され、公爵様らには『おまえは客人だから手伝わなくていい!』と言われるが、神殿でも見習いとして掃除や雑用に明け暮れていた私にとっては、お手伝い程度の労働はなんてことなかった。
だって、タダ飯喰らいの上にご褒美だらけでは、罪悪感しかない。
……そして、本日も。公爵様らの目を盗んでは、お手伝いをしている。
働きたい貴族令嬢の私に、恐縮しない使用人もいる。
「ラヴィ、薔薇のトゲに気を付けろよ!刺さったらすぐ血が出るからなぁー」
「わかってるよ、ファビオ」
「わはははー」
庭園から採ってきた花を台車からどんどん降ろしてはこっちに持ってくるのは、庭師見習いの少年、ファビオ。
私と同じ歳の、栗色の髪が印象的な男の子。大人しかいないこのお屋敷の中で私と同年代の子は珍しく、ファビオが気さくなこともあり、仲良くさせてもらっている。
神殿にいた時に顔を合わせていた、野菜屋さんの業者の息子さんにそっくりで、勝手に親近感を持っていた。
いっつも笑ってる。
お庭のお仕事を手伝うのはもちろん、一緒に馬番さんのお手伝いもしたり。
『貴族令嬢が馬の世話出来んの?!』と驚かれた。神殿では聖騎士団の馬の世話をしたこともあるので全然平気なのだが、これは秘密。
私が神殿にいたことを知るのは、公爵夫妻と公子様のみ。使用人さんらは、何故伯爵令嬢の私がこのお屋敷にいるのかよくわかってないだろう。
でも、そんなことは誰にも追及されず。ファビオも出くわす度に『ラヴィ、今日の調子はどうだい!』と気さくに話しかけてくれるので、おかげで毎日楽しく過ごさせてもらっている。
そんなわけで、神殿を追放されてからの公爵領での生活。最初はどうなるのかと思っていたけど、案外楽しくやれていた。
……神殿からの連絡は、何もないけど。
お兄様からの連絡の文すらも来ない。それだけが気がかりだった。
「ラヴィ、今日はおまえさんと同じ名前のラベンダーも採ってきたぞぉー」
そう言って、ファビオが台車から降ろしてきたのは鮮やかな青紫色のラベンダーの束だった。
爽やかな香りがフワッと鼻を掠める。
「わぁ!」
「今サロンに飾ってるラベンダーは、ミモザが乾燥させてサシェを作るってよー。ラベンダー安眠効果あるらしいからな。完成したら枕の下に入れるらしい」
「ラベンダーのサシェ?待って待って、私もやりたい!」
「わははは。ミモザに交渉しなー?」
そうしてファビオと笑いながら摘みたての花の仕分けていたところ、馬の蹄の音と共に馬車が停まる音がした。
外出されていたアルフォード公子様がお帰りになったようだ。
馬車から降りて、その姿を見せる。
降り立ったその上品な佇まいに、うっとりと見惚れてしまったのは言うまでもない。
聖騎士を目指していたというのに、体つきはお兄様や長子のランクルーザー様のように筋肉隆々で武骨ではなく、程よく逞しくてスラリとしている。
艶のある金糸のような髪が靡き、睫毛が長くて大きいアメジストなような瞳を持つ、女性のように美しい横顔は甘い雰囲気を放っていた。
まさに、絵本の中から出てきた王子様そのものだ。
もう、輝いているよう。
(ほんとに、素敵……)