樹先輩は呆然とした様子で声も出さず大きく目を見開いていた。

「だから、私から離れました。離れてしまえばもう過去に囚われたくもない。地元の誰かとつながっていたら知りたくないことも聞きたくないことも耳にしてしまう。それが嫌だったんです」

私は静かに立ち上がり樹先輩を見下ろした。

「これが真実です。---こんなこと、先輩は知りたかったんですか?これは私を追いかけてまで聞きたかった話ですか?」

返事はない。
先輩は自身の足元を睨むように俯いていた。
黙ったまま何も言わず両手は膝の上で固く握られていて、少し白くなっているようにも見える。

本当はもっとひどい言葉で詰りたかった。私は寂しかった、辛かった、悲しかった。でも、そんなこと今さらだ。
もっとひどいことを言えば今はスッキリするだろう。けど、そんなことしても後々きっと後悔する。

「私、帰りますね」
「千夏」

顔を上げた樹先輩と目が合った。
瞳がゆらゆらと揺れていてその顔が私より辛そうに見えるのはそうであって欲しいと私がそう思っているからだろうか。

「千夏、俺・・・」

「樹先輩。今、神戸の親元を離れていて私もこの辺りに住んでいるんです。だから、この先偶然、樹先輩と出会ってしまうこともあるかもしれません。そんな時、できれば私のことを無視してくれませんか。何もなかった他人みたいに。私たちは知り合いじゃなかったって。すれ違っても赤の他人」

「な、何言って・・他人って、うそだろ」

「少しでも私のこと可哀想って思ってくれるんだったらーーーそのくらいいいですよね」

無理やりに口角を上げて笑顔を作る。

「サヨナラ、センパイ」
震える右手を何とか顔の横まで持ち上げて手を振って、駅に向かって駆けだした。

「待って、待って、千夏!俺の話は終わってないだろっ!」

背後で樹先輩の声がするけれど、私は足を止めないで走った。

たぶん、樹先輩は追いかけて来ない。
私のこと少しでも可哀想だって、悪いと思ったのなら追いかけては来ない、そう思った。