カウンターの前に誰かがやってきた。

ハンナは慌てて腰を上げる。


「すみませんっ、いらっしゃいま………」


最後の「せ」は、息を飲み込んだせいでほぼ無音だった。

ちょうど掴み取った紙包みをポロリと床に落としてしまう。

それを拾う動作もできないくらい、ハンナはカウンター越しに立っていた人物に目を奪われた。


「取り込み中だったかな? 申し訳ない」


滑らかに紡がれた言葉は、工場働きの男のしゃがれた太い声や、主婦たちの張りのある高い声とも違う、独特の優美さがある音色だった。

身にまとっている上質そうな紺色のコートに、クラウンの高いシルクハット。その着飾った服装に劣らない整った美しい顔。きめ細やかな白い肌に、すっと通った鼻筋。切れ長な青い瞳。少し微笑ませ弧を描く薄い唇。

このしがない下町のパン屋の内装に、全く釣り合わない上品な気を漂わせる男だった。

それもそのはず。

何しろ彼はハンナたちのような平民とは違う、れっきとした貴族なのだから。



「い、いいえ! とんでもございません! すぐに気づけず申し訳ありません」


言いながらハンナは頭が真っ白だった。


(伯爵さまだ…! 今日も来てくださった。でも今、私の不恰好なところを見られた? さ、最悪!)


彼こそ、ハンナが密かに思いを馳せている常連のお客さんだった。

名すらわからないほどハンナは彼のことを知らないが、左の胸元につけられた、伯爵の位を王から授かった者に与えられる銀のワッペンが、彼の身分を示している。そのためハンナは勝手に彼を「伯爵さま」と心の中で呼んでいた。


頭の中が空っぽになりながら、体に染み付いた接客の作業に身を任せて商品を袋に包もうとした時、初めて伯爵が何も持たずにカウンターの前に立っていることに気づく。


(あれ…今日は何も買っていかれないのかな。ならいったい…?)


ハンナは伯爵を控えめに見上げると、一度もそらさず、まっすぐ彼女を見下ろす鮮やかな青色の瞳と視線が絡み合った。


どき。



「あ、…あの……?」


胸の前で組んだ両指に力が入ってしまう。

伯爵はそんなハンナの様子をしばらく見つめ、やがて、ふわりと目を細めて微笑んだ。



「アップルパイは、もう売りきれてしまったのかな?」


「えっ…」



甘い響きを灯す声音に心臓が跳ね上がる。そんな自分の心を無理やり隅によせながら、ハンナは慌てて売り場の陳列棚を覗く。

確かに、アップルパイと、クロワッサンが並ぶはずのトレイも空になっている。

いつのまにか出していた品は売り切れてしまっていたのだ。


「い、いえ、ございます。すぐに持って参ります!」

「うん、ありがとう」



ハンナは振り返り際に紙包みを落としたことをようやく思い出し、素早く拾って厨房へ向かった。



「あれ、ハンナちゃん。どうしたの、そんな慌てて」


厨房では、ヘンドリックとマルレーネが焼きあがったばかりらしいクロワッサンを取り出しているところだった。

ヘンドリックのいつもの緊張感のない呑気な声を、マルレーネがきびきびした声で遮る。


「何かあったの?」

「アップルパイとクロワッサンが切れてしまったんです。それを今いらっしゃっている伯しゃ……お、お客様が注文されているので取りに来ました」

「もう売り切れちまったのかい。こっちも急ぐから、とりあえずこれだけすぐ持っていって渡しておやり」

「はい」



1つのトレイにクロワッサンとアップルパイを半々に乗せられるだけのせ、マルレーネはハンナにそれを渡した。