幼馴染という長い関係らしいが、一度はお互い別々のレストランのシェフに弟子入りし働いていた。
しかしマルレーネが独立して店を出すことになると、ヘンドリックは務めていた店をあっさり辞めてマルレーネの補佐役として働くことにしたというのだ。
店を持つなら同じくらいの腕をもった従業員が必要だろう、というのが理由だというのだが。
(それだけじゃないと思うけれど)
ヘンドリックがマルレーネに惚れているらしいことは、ハンナがここへやってきて3か月もしないうちに気づいたことだ。
幼少期から換算すると30年以上もの片思いになるはずだが、どうやら彼は恋愛のことになるとちょっぴりヘタレになるようで、なかなか思いを伝えられないらしい。
マルレーネはといえば、彼女にとってパンより興味のあるものはないらしくヘンドリックなどまるで眼中にない。
お似合いだと思うけどなぁ、とハンナは密かに二人が一緒になることを願っているのだが、目の向く先が噛み合わない二人が結ばれる日は、なかなか遠い話のように感じざるを得ない。
ハンナが働き始めたばかりのころ、掃除ばかりの毎日に情けなさで泣きべそをかいていたハンナに、ヘンドリックは自分のアパートへと一度招待してくれたことがあった。
その部屋の散乱した光景は、今でもハンナは忘れられない。
決して広くはない一人部屋の床には、足の踏み場もないほどの本と紙の束。尋常ではない散らかり方よりも、その本や紙の内容に目を奪われた。すべてパンに関連した、素材や下地研究のものばかりだった。
普段の飄々とした彼の印象からは想像しづらいが、かなり熱心にパンの研究をしているようだ。
ハンナにとっては、ヘンドリックのパンの腕は当時でさえ既に一流だった。それなのに未だ勉強し続ける姿勢は、まだ10歳だったハンナを心から感動させた。そしてそこまでやれる所以はなんだろうと考えもした。
ベーカリー・シュガーのパンを買ってくれるたくさんの人たちのために、それと同時に彼は、マルレーネの横でずっと一緒にパンを焼き続けていくために、自分の腕を磨き続けているのかもしれない。
そんなことを考えると、ハンナはやっぱり二人が恋人同士になってくれるのを望まずにいられないのだった。
愛する人のためにパンを焼く。ロマンチックで、そしてとても幸せなことだ。
自分以外の誰かを想ってつくったものには、魔法がかかってさらに美味しくなるのだから。
(なら、私は何のために作ってるんだろう)
ハンナは自分のアップルパイを見つめた。
このパンは、何のために…誰のために、作ったのだろう。
「ハンナ!」
売り場のほうから聞こえてきたマルレーネの声にハンナは我に返った。
クロワッサンを乗せたトレイを持ち、売り場の方へ急ぐ。
「接客を交代するよ。紙包みの整理をしといておくれ」
「わかりました」
マルレーネは忙しなく厨房へ向かっていった。