香ばしいバターの香り、
ふんわり漂う甘酸っぱいりんご。
網目状の表面の生地はキャラメル色にきらきらと光り、微かに立ち上る水蒸気にのせて幸せな香りが体中を包み込んだ。
(よし、今日も上手に焼けた)
ハンナは作業台に並べたアップルパイを見渡して微笑む。
出来栄えに満足しつつ、自分で作り上げた大切な商品を、ハンナは気を引き締めて丁寧に切り分けていく。
ナイフを入れるたびにサクッと軽やかに鳴るパイ生地の音が楽しい。
緩む頬を何度も引き締めながら切り分けていると、売り場に繋がる通路から誰かが顔を出した。
「ハンナ、十分前だよ。アップルパイは」
「マルレーネさん! すみません、今持っていきます」
マルレーネはハンナの周りに並べられたアップルパイを見る。見定めるような視線に、ハンナは緊張して身を固くした。
彼女はハンナをちらと一瞥し、ただ黙って小さく頷いた。
「気を散らせてないで、出来たら早く運んできておくれ」
「はい」
忙しそうに通路の奥に戻っていくマルレーネの後姿を見送ってから、ハンナは再びアップルパイと向き合った。
(急がなくちゃ。開店までに間に合わなくなっちゃう)
さっきよりも素早くナイフを入れていきながら、ハンナはそれでもアップルパイを目の前にすると、知らず頬が緩くなってしまう。
――今日はあの方は来てくださるかな。
ハンナの心には、一人の青年の姿がいたずらに見え隠れした。
サクッとパイは相変わらず可愛らしく音をたてる。
開店前のこの時間は、いつも気持ちが上ずってしまう。
(今日も私のアップルパイを買ってくださるかな。…ううん、期待しすぎちゃだめ。来てくださるだけで十分だもの。だけどもし買ってくれたとしたらどうしよう? お礼を言うべきかな。いつもありがとうございます、って。きっと私なんかに声をかけられても戸惑うだけだよね。でもお礼くらい伝えても…)
お得意様にただの雇われの娘が、独りよがりで身勝手な気持ちだと十分理解している。
それでも考え出すと止まらなくなってしまうのは、“恋”というものの性なのだろう。
ハンナが思うその人の姿は、パイの中に隠れた甘くみずみずしいりんごのように、甘酸っぱくて蕩けそうな香りで心を満たした。
最後の一つを、運ぶためのトレイにのせ終えたところで、開店5分前のチャイムが厨房に響いた。
「ハンナ! 開店だよ!」
「はい、ただいま!」
マルレーネの声に大きな声で答えながら、ハンナは出来立てのアップルパイをのせたトレイをもって売り場へと急いだ。