立ち上がり、泣いてる姿を見られまいと空を見上げた。
ついに降り出した雪が、花奈の涙を撫でていった。
「ごめん」
「犬が死んだの。大切なペットが、家族が!」
彼の息を呑む雰囲気を感じて、花奈はますます腹が立った。
「不登校のあなたにはわからないでしょうね。大事でもない部活のクリスマスパーティなんかに付き合わされて。関係がギクシャクするのが嫌だから、無理やり参加したクリスマスパーティのせいで!」
「花奈ちゃん」
「わたし、看取れなかった。ジャックはわたしを待っていたかもしれないのに。最期の時に、いてあげられなかった」
さっき会ったばかりの男に何を話しているのだろうと思うが、花奈は言葉が止まらない。
「ジャックのいない日はなかったの。わたしが物心ついた時には一緒にいたんだから!」
「悪かった」
「あなたになにがわかるの! ずっとあった温もりがなかったのよ。玄関に首を向けたままで」
思い出すだけで辛く、悲しくて涙が流れていく。頬を伝う涙が制服を濡らす。
うまく言葉が紡げないことに花奈は苛立った。
「本当はもっと一緒にいたかったのよ。ジャックはもっと遊びたいって思ってた。きっと、きっと!」
ついに花奈は泣き崩れてしまう。咲也はそんな花奈に何をするでもなく、黙っていた。
長い沈黙だった。ただ、花奈の泣く声だけが聞こえる。
――――
どれくらいの時が経ったのだろうかと、花奈が顔を上げてみればすっかり辺りは暗くなっていた。
街灯に明かりがつき、雪がキラキラと輝いている。
ようやく落ち着いた花奈は、もういなくなったのではないかと思うほど静かにしている咲也を振り返る。
咲也は立ち上がって、桜の木にもたれて泣いていた。
驚いて言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「なんで、あなたが泣いてるの?」
「だって花奈ちゃんが泣いてるから」
つられて泣くなんて、なんて純粋な心を持った人なのか。花奈はとても信じられなかった。
「ごめん」
「謝ってばかり」
「違うんだよ。おれ、花奈ちゃんに……ジャックに恩返ししたかったから」
「え?」
そう言って咲也は花奈の手を取って早足で歩き出した。引きずられるように花奈は咲也の後姿を追う。
「ちょっと、なんなの?」
「ごめん」
「謝るだけじゃ、わかんないから!」
*
住宅街に入ったところで、咲也はやっと普通に歩き始めた。ただ、手は繋いだままだ。
どこへ行くのか、何がしたいのかを問うが、彼は口を開かなかった。花奈は質問するのを諦めた。
住宅街を少し外れたところに、小さな空き地がある。あまりに小さくて家を建てるのは難しい場所。
春には花が咲き、夏は日陰になるから休むのに最適。
秋にはどこからかやってきた枯葉が彩り、冬に雪が降れば最高の遊び場だ。
ジャックのお気に入りの場所。
何も言わず、彼はそこで散歩を始めた。
寒い中に咲いていたタンポポを見つけてはしゃいでみたり、空から降ってくる雪を見て笑ったり、白くなってきた葉っぱを触って喜んでいる。
花奈がどうしたものかと困っていると、咲也はまた手を繋いできた。
「次、行こう」
「次?」
公園に行ってははしゃぎ、商店街で美味しそうなお惣菜に惹かれ、温かい魚のフライにかぶりついて子供のように笑顔になる。
いつの間にか花奈も嬉しくなっていて、ジャックを忘れたわけではないけれどとても楽しい時間だと思った。
「こうやってよく、散歩した」
「ん?」
「花奈ちゃんが好きなのは商店街で、おれが……いや。ジャックが好きなのはあの空き地」
「なんで? なんで、知ってるの」
「なんでかな。そう、つまりさ……」
咲也は困ったように笑って、ぽつりぽつりと丁寧に言葉を紡いでいく。
とても悲しくて、とても寂しくて、辛いことを彼は花奈に話し始めた。
*
咲也が不登校になったのは怪我が原因だった。
彼はテニスが好きで、幼少の頃からラケットやテニスボールで遊んでいたのだと言う。
中学ではそれなりのいい成績を残していて、高校最初の大会では一年生ながら入賞することが出来た。
しかし利き腕の調子が悪く、大会後に受診してみれば肩や肘に異常が見つかった。日常生活に問題はないが、テニスを続けることは難しい。
ずっと側にあったテニスと別れる選択を迫られて、学校に行くことさえ苦痛になって不登校となった。
「改めて考えてみたらさ、テニスを取られたらなにも残らないんだよ。おれ、すごく勉強出来るわけじゃないし、人付き合いがいいわけじゃないし、仲間と呼べる奴もあんまいなくてさ。怪我したって言ったら、部活の奴らみんな離れていったよ」
そこまで話してから、咲也はため息をついた。
「テニスで有名な選手になる。本当に夢で終わったよ」
掛ける言葉が見つからない。
慰めるのも励ますのも違うと思ってしまい、花奈は思った以上に冷たい言い方で質問していた。
「そのこととジャックと、なんの関係があるの?」
「あー。それは……」
二人は寒さから逃れるためにコンビニエンスストアにいた。
その一角、カフェコーナーでミルクティーを飲みながら、花奈は咲也の言葉を待つ。
同じくコーヒーを飲んでいた彼は少し俯いて、赤らんだ顔をしていた。
「実はジャックのこと、知ってんだよ」
「知ってる?」
「あいつ、脱走して一週間帰らなかったことあっただろ?」
花奈は思い出していた。
それは春頃。散歩の途中でうっかりリードを離してしまい、ジャックと離れ離れになった。
どんなに捜してもいなかったジャックだが、一週間後に家の庭で遊んでいた。
「学校の近くにいてさ。リードついてたから、飼い主捜してたんだ。しばらくおれの家で預かってた」
初めて知ったジャック謎の一週間。
必死に捜していた花奈とは裏腹に、違う場所で楽しんでいた。想像すると花奈は急に可笑しくなってきた。
「それで?」
「あいつに助けられた。ちょうど落ち込んでた時でさ、傍にいてくれたんだよ。ジャック」
毎日、咲也に散歩を要求して、ご飯を要求して、気楽に過ごしていたジャック。
飼い主のところへ帰る気配もなく、気がつけばジャックの世話が日課になっていた。
だから咲也は知っていた。
ジャックが好きな散歩の場所がどこなのか。
商店街でじっと待つ素振りから、花奈が好んでそこを通っていたこともわかったのだと語る。
「でさ、なんか落ち込んでるのが馬鹿らしくなってきて。用事済ませて帰ったら、ジャックいなくなってたんだ」
そして、いつの間にか花奈の所へ帰ってきていた。
確かに行方不明だったというのに、ジャックは汚れていなかった。
そういうことだったのかと、花奈はジャックを撫でたくなる。
「気のせいかもしれないけど、ジャックが勇気くれた。元気になったから安心して帰ったのかなって」
「そうかもね」
花奈はふと思って咲也を見つめた。
「じゃあ、なんで学校来ないの?」
「あ……それは、なんとなくタイミングが」
「ジャックが悲しんでるわ、きっと」
「……うん、わかってるけど」
「じゃあ、さ」